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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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メランコリーの恋人

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空はためらいながら樹脂を引き
おれのまなざしを一本の綱のように
取りさばき より合わせ あしらい
なにくれとなく演戯などをしてみせる
はしゃぎまわる黄色い帆
はてはまた 天末線まで駈けてゆき
すぐに息を切らして戻ってくる
澄んだ想念の子供たち 飛ぶ鳥よ
 

 そのこころねのやさしさよ

漁り火と烏賊の肌 石の花 色は変る
水は巡る 水は走る
その行き着く果ーー走水に
オトタチバナの面影の
八枚の赤錆びた鉄の板
穴をあけられ 火で灼かれ
組立てをおわり 進水式をすまし
そこにうずくまった灰色の自衛艦
舷門当直の乾いてかすれた顔の彼方
かようランチの錯乱の末に
黒々と立ちはだかり 空を区切る
育成者ーー起重機の林
おまえはそれらを
庭の爪草の花や
山のエンレイ草の実をとるように
誇ることができるか


 (また行きどまりだ)
日の影が月の影に重なって
歳月のむこうは透かしても見えない
恥辱の微粉が埃のようにつもる絶対の今日
こうして重く石を踏み おれの足は歩む
三月のつぼみのように なにげない顔つきで
臨海鉄道をとぼとぼと行く
身体の中でまわっている機能の歯車
人さらいの目つき 汚れた手のひら


行けども行けども坂ばかり
さかしらだてのさかうらみ
低い山とて背にしてみれば
心は流れて波間を走り 沖にむかうのに
観天望気を欲するなら
坂を上るほかない
踏みまよう
ヨモツ平坂 長源寺坂
登りつめ
思いつめた葦の原


空はますます演戯に熱中し
水素炎 空一面を飛び回る


記憶の斜交座標に捕われた
これまでの影うすい日々 土地への嫌悪
日が昇った 日が沈んだ
青雲の高原を出発して以来
見た雑貨の数 味わった乾物 人々の罵詈
王の刈り込んだ髪 四角な建物
山を喰い 水を喰う 巨大な獣たち
運転する鬼どもの汗とあがき
何も知らずうろつきまわった錆の山
地獄めぐりの二足三足
やってきた臨海公園のベンチに積もる
はがれたペンキの剥片の色


(昔 ナンタケットは運の良い港だった)
「おれかね 名はイシュマル
 職を探している」
ーーー三百分配当
(おれなら八百分でもいい)


『暗車注意』
水の中で未来永劫まわりつづける
闇の車
因果の小車
  

船よ船よ 今生の頼み
おれを連れ出してくれないか
四つ目の巨人の投げる石のとどかぬ所へ
若い奴隷を一人運んではくれないか
そしてーーー


明日は船が来る日
いや 明日は船が来ない日

       


        『軍港』 池澤夏樹 詩集成 より転載


 池沢夏樹がまだ詩を作っていた青年の時代は、日本経済がまだ輝きを失っていない時代だったと思う。団塊の中心的世代の彼がその後、詩を書くのをやめて小説に主戦場を移すのはそんなに時間は必要なかった。埼玉大学理工学部卒だったと思うが、理数系のクリアカットな観察眼で文学から「湿度」を取り除いた心理描写は僕にはとても新鮮に映った。きっと当時はプルーストの読み過ぎだったのかもしれない。村上春樹から演歌とファンタジーをを引いたら池沢か?と思うこともある、、。
札幌出身で、母は詩人。父は大作家の福永武彦である。文芸サラブレッドの血筋だが、二世のメリットを自ら打ち捨てる勇敢さが彼にはあった。やがて彼の放浪の旅が始まる。タヒチ、ハワイ、沖縄、ギリシャ、パリ、世界中の気になった場所に数年しばらく住んで、たまに仕事のために日本に帰るという「渡り」の歳月。
ノマドライフ!!
独特の文体で固定ファンを獲得して(主にうちのマダムのような感覚人間が多いと推定される)いつの間にか芥川賞の選考委員をつとめ、新しい作家たちを発掘するという仕事を自分に課した。その彼も2年前にその席を譲った。
 彼の選択眼は鋭いし、職業柄広く深い読書が仕事だ。古典の読み込みもさすがにプロで、日本古典文学から世界文学まで広いジャンルの小説をカバーする。カズオイシグロやガルシアマルケスに深い共感を持つ作家であり、商業的でない小説群を書いて商業的に成功した稀な作家だろう。雑誌(婦人誌や若い女性向けの雑誌)に広くショートや詩を書くが、質は落とさない。アメリカにバニティーフェアとかニューヨーカーとか質の高い総合雑誌があるが、そういう高い鑑識眼を持つ編集者が執筆依頼をする水準を保つ希有な日本人作家の筆頭だろうと思われる。
 10年ほど前に彼の選によって、河出書房新社から世界文学全集が発売された。初回配本がいつも僕が書いている「オン ザ オード」ジャックケルアック 青山南 訳である。この全集で池沢自らがアップダイクの「クーデタ」を新訳している。また今年から池沢の選で日本文学全集が発刊される。超豪華執筆陣でこの10年の日本文学の解釈のすべてがここにはあるだろうと期待が高まるのだ。あの内田さんも高橋君も三浦しおんちゃんもちゃんと入っているのが凄いだろ?お金なんてなくてもこんなステキな本が読めれば、すごくシアワセじゃないか!相場なんて下賤な金儲け仕事の数百倍の悦楽がここにはあると思う。たった8万円ほどで幸福は売っているのだ。
方丈記 高橋源一郎 訳■新訳
徒然草 内田樹 訳■新訳:好色一代男 島田雅彦 訳■新訳女殺油地獄 桜庭一樹 訳■新訳
雨月物語 円城塔 訳■新訳菅原伝授手習鑑 三浦しをん 訳■新訳1:古事記 池澤夏樹 訳■新訳
販売チラシを見ただけで即座に「全部即買い!」そう思った。

 こんな怠け猫でも若い頃は死に物狂いでお金儲けに奔走した時代もあった。金持ちになって早く引退して、長い引退生活をゆっくりと本でも読んで楽しく暮らすという他愛無いガキの夢。なんとかかんとか金など無いがそうなってからもう20年近くが経つ。「僕はやはり仕事嫌いなんだな。」とつくづく思うこのごろだ。だから輝いて仕事に邁進している立派な同僚を見ると頭が下がる。仕事はお金とはほとんど関係ないと本気で思うが、それは仕事が誰かにとっての役割を引き受けるという責務によるものだからだろう。その意味で、投機は誰の責務も引き受けはしない。つまり幻想であるという強い自覚が必要だ。だから投機で得た金も所詮は幻想である。幻想ばかり喰って生きていると、たまに早起きなどして地に足のついた事に近寄りたくなることもある。7時半に起きて、伊豆の国市の「青空市場」という農産物直売所に野菜を買いに出かけてみた。9時のオープンにもう50人は並んでいる。東京ナンバーも数台いた。みんな楽しそうにたくさん野菜を買っている。朝取り、低農薬、不揃いだが安くて美味しい。イオンの6掛けの値付けかな。
80名の生産者の顔社員が壁に写真付きで張ってあった。僕より若い人はわずかに数名しかいない。みんな後期高齢者ばかりだ。10年後に彼らの多くが同じように農業が出来るとはとても思えない。「安心、安全」な日本野菜の寿命はきっともうそう長くはないだろう。若者は農業を継がない。お金は社会を確実に変えたということだ。

 それでも僕は子供の世代の若者たちが「お金」という幻想によって社会革命を起こすことに強い期待を持っている。彼らは必ず日本を変えると信じたい。彼らがユートピアの住人になるという夢を僕は強く信じたい。

 可能も不可能も存在しない。ユートピアは、政治経済に反対して注がれたすべてのエネルギーのなかに現存している。しかしこのユートピア的な暴力は決して蓄積されず消え去っていく。それは、経済的価値のように死をなくそうとして肥えふとろうなどど努めはしない。それは決して権力を欲しようともしない。『搾取されるものたち』を権力を獲得するというただそれだけの歴史的可能性のなかに閉じ込めることは、史上最悪の革命の簒奪であった。これに照らしてみると、経済学の諸公理がどれほど深刻に革命的展望を掘りくずし、包囲し、逸脱されたか、がわかるというものである。ユートピアは権力と現実原則に反する言葉をのぞむ。それらはシステムとそれの無際限の再生産の幻覚でしかないからである。ユートピアは言葉だけを欲する。言葉のなかへ消えるために。


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「テキストの影響力」という事を少し考える。一度も会ったことのない人の言葉を信じるという意味で、「そのテキストの値打ちの評価」とは評価する側の頭の良さにかかっている。ネット社会がこれほど発達する以前は、何らかの意見や考えを個人が広く公表したり公開したりするのには、その公開の過程で様々なフィルターや規制が現実的にかかった。その規制によってある程度の品質の均質性が担保されたとも言えよう。テキストはネット社会が出現する以前は、大半が印刷という行程を経て人の目に触れた。新聞、雑誌、書籍などの印刷物という形式を取らざるを得なかった。どんな悪質なテキストであれ、校正され植字され印刷されるのが普通で、それには「コスト」というフィルターがかかったから、採算という意味で合わないものはあまりテキスト化されないという現実があった。ところがネット社会の出現とともにコストの壁は事実上取り払われ、誰もが自由にテキストを公開することが容易になった。有り余る自由な表現という新世界にあって、意欲的な表現者はその自由を謳歌する一方、表現手段を上手に駆使できない人たちはロム専という態度でテキスト化される幻想を享受するという分離現象が起きつつあるのだろうと想像する。ここでも言語表現のRICH&POORという2極化現象が生まれた。

 印刷出版界はこのような電子化の波のあおりを受けて存亡の危機にある。それは広告の出稿量に単純に比例する。「マス化」されたものに対する「飽き」と「嫌気」という時代の気分ということもあるのだろうし、one to one という興味の対象のピンポイント性という部分で対応が難しいマスメディアの限界性ということもきっとあるんだろう。大切と感じる消費の対象が「もの」から「こと」に変化して、「ものの所有」のウエイトが減少したせいもあろう。笑えるジョークなんだが、10年ほど前に相場塾を戯れでやってみた経験から、「うねり取り」とか「リズム取り」がしてみたいという人にたくさん会ったことがある。「なんでそんなことしたいの?」と聞くと「自分探しですね。」という答えが帰ってきて面食らった。懐石デートの最中だったものだから、食べていた刺身を吹き出しそうになって困った。「自分探し」なんてどこかにきっと「他の本当の自分」がいるということだろうか。「今のあんたは幽霊か?」と思ったがデートが台無しになるし、僕はオネーチャンと政治経済、哲学のお話を出来ればしたくない。だから政治以外のことをなるべく板に書いて、そういうことは僕はこうなんですねという事前告知をして、それでも集まってくるようなネーチャンだけ相手にしたほうが都合が良い。事前にフィルターを通過していればある程度の知的品質が保たれ、時間の無駄が省けるということなのだ。あまりにアホなネーチャンは困るのだ。かといって上野千鶴子大先生のような♂を目に敵にするようなアマゾネスも戴けない。どうせ食われるのは♂なら致し方ないという宿命は甘受しつつも、美味しそうにエレガントな食われ方をされたい、そんな情緒をロマンチックというのだ。それがデリダの言う恋愛のでディスクールの作法では無かったか?
 新聞を取らない家庭が増えた、雑誌もあまり売れなくなった、大学生が驚くほど本を読まなくなった、テレビをあまり見なくなった、この10年ほどの社会的現象であるらしいこのような事態は、今後どういう具体的変化を社会に与えることになるのだろうか?などど「流行」現象について思う。このような現象の原因か結果は、ネット社会への大衆の関心が基盤となっている。大量のデータ通信が基盤となって成立するネット社会(ネット幻想社会)にあってマスをリードするものが何かは、ある意味でお金という幻想の記号の行く末の帰結に直結する、そんな予感もした2005年だった記憶が有る。
 「世界は女で変わる」という持論が僕にはあって、だから「上げマン」と一緒に暮らせば一生安泰であると子供の頃からずっと思って来た。幸運な男の妻はみな「上げマン」である。だから男が幸福になるためには、まずペアとなる上げマン候補を探すことが一番の専決優先事項で、♂はこれにあらゆる資源(時間と金、暇、情熱、知恵のすべて)を投入する必要が有る。別に人間に限らず、すべての動植物の最優先事項なのだから、これが出来ないような人は生物種として落第である。「基本の基本の基本」だから、これがダメだとこの上に何を足そうが載せようが大した事にはならない。これさえ可能ならもう勝負の8割は勝ったも同然である。金とか地位とかそんなつまらんもんは後でどうとでもなるが(所詮無くてもどうでも良いものだ)、上げマンは大抵が「早いもの勝ち」の世界で法的に専有が一応(?)効くことになっている。最上のものから早く売れるという傾向は当然の事だからだ。帰国中で突っ込みを入れたくてもできないことを良い事に書くが、ベトナムさんの才能は実は相場などではない。彼の類い稀な才能はこのペアの獲得を最優先する生活態度に他ならない。つまり需要の必要性の確保が嫌でも行動に直結するというフードバックサイクルを生活に自然に組み入れる本能が優れているのだ。玉操作なんて基礎を固めてやっていれば時間をかければそのうち馬鹿でも上手くなるから、後でも(60歳を過ぎてからでも)どうとでもなる。だがかーちゃんやネーチャンに捨てられるような生活は基本的にダメである。基盤が崩れると坂を落ちるように地獄に一直線である。最近の傾向で女性のほうから「三下り半」となるケーすが激増中という報道を目にしても、地獄に直行する年配男性が急増しているのは間違いないだろう。1/3が離婚するということは未婚も含めて男性全体の5割が「運」を無くした状態で闘う。当たる曲がるが1/2を超えない確率で自分から運を捨てれば常に負け戦の常連を選ぶようなもんで、一方上げマン持ちの男は何もしないでも勝手に5割が負けるから、よほどド下手でない限り目を瞑っていてもそのうち勝つに決まってる。だから離婚率の上昇は、上げマン持ちの男の利益率上昇と同義であると思う。だから相場師が一番大事にするのは玉ではなくて♀である。安サンを見ればわかるだろう?飛車角落ちの相手とこちらは相手の飛車角を貰ってのタイマン勝負なんだ。普通にやれば全勝になるに決まってる。
 僕が若い人(40歳までに)限定してグラフ閲覧会を企画したのは、世代間格差拡大が姦しいなかで、「若者の逆転を応援する」という革命政治的意図に基づいて行動するというささやかなイェールのつもりである。(いきものががりのイェールは良い歌だね!)若い人はあまり相場をするお金がない。自分でコツコツ仕事をして貯めたお金だから普通の若いリーマンなら大きなお金では多分ない。これが頭金で家など買うともう一生がアウトだ。犬以外に選択肢がなくなるので注意しろ。欲しいのは「自由で豊かな暮らし」であり「持ち家」という物ではない。頭の良さが問われるし、ノマドかどうかも同時に問われる。奴隷か?それとも遊牧民かの分水嶺が実はここなのだ。上手くなれば10年もしないで欲しい家は現金で楽勝に買えるのだから急ぐことはない。ローンもダメだ。奴隷への特急券と思ったほうがよい。少ない金が実は良いのだ。苦労して作れば大事にするから操作が慎重になる。若いので借りるという担保力もあまりないだろう。徐々に腕に応じてお金が増えれば「でたらめなやり方」が効かないから、時間をかければ大きくなる。ちょうどゼロ(マイナスか?)からベトナムさんが大きくなったと同じ事が若い人なら十分に可能だろう。10年ぐらいは誰でもかかる仕事だが、やれば多くの人が成功する可能性は高い。しかも団塊世代以降の年齢層の塊が大量退職して退職金というお宝の塊を持って現在市場に直接、間接的に参入中であり、彼らの多くが定年離婚だの熟年離婚の憂き目に合う確率がどんどんと高まっているのだ。鴨ネギ状態大量発生中!!!だからデタラメをしないで基礎の基礎から地味にやれば、相手から金が自然にやって来る状態という恵まれたタイミングはしばらくは続く。およそまだ10年はあるだろう。この間に徹底して、この「運を自分で捨てる世代の男たち」を食い物にすれば良いのだ。明治維新以来の男女の力関係のサイクルの大変動が始まっていることに金融関係者も大きな注意を払っていない。「どこをこの馬鹿たちは見てるんだろう?」と思うが、きっと彼らの多くも今後妻に捨てられてやがて格好の餌食となる運命にあると思われる。「女が世界を変える」ということに気がつかない馬鹿な♂が多いうちは、いくらでも商売になるのだ。「マネーのコンドラチェフサイクル」が上向きという現象を知覚するそんな匂いとは、つまり「女たちの状態を常に見ておくことに限る」という生物の生存本能なのである。

 さて能書きはここまでで、日曜クイズをまた出そう。参加番組にすると少しは左脳を使うから気持ちがよいだろう。
2つのグラフを見て、最初は1306(topix etf)と5000番台の銘柄の折れ線グラフだ。グラフ間の相関関係は以下の4つしか可能性はない。
1306 Aを基準と仮定すると 5000番台のそれぞれの個別株のグラフは
 1 Aと同期する
 2 Aに先行する
 3 Aに遅行する
 4 Aと逆行する

以上の4つの可能性しか現実には無いはずだ。だから戦術は必ず限定されるのが論理的必然のはずだ。一方Aそのものの動きは2本の三角定規の類似、相似のような動きを見せているように僕には感じ取れる。さてここからは右脳を少し使え。
ここら自分也に目先3ヶ月−6ヶ月程度の建玉の基本戦術を考えてもらいたい。流れがここまでどういう流れで、ここからどう流れそうか?ということがポイントになると思うが、個別によって値動きの癖が異なるから無数のやり方に別れると思う。
それがそれぞれの自然なやりかた、好みということになっていくと思われる。ヤラナイという選択も無論含めてということだ。

よく観察するというのは場帳からも出来るが折れ線からも出来る。新値も比較できるし、銘柄間の鞘も一覧で捕捉できる。道具の重要性は見ればわかるはずだ。有る無しでどれほど有利かは馬鹿でもわかるが、馬鹿はその用意さえしないで相場をしようとする。「気が狂っている?」と普通なら思うはずだが、、思わない所が馬鹿が馬鹿たる所以であろうか?

僕たちのユートピア

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 実を言えば、マルクスは正しいし、『客観的に』正しい。けれどもこのレゾンとこの客観性にマルクスが到達するのは、あらゆる科学と同じく、否認を代価として、つまり「共産党宣言」と「資本論」と同時代の根源的なユートピアを否認するという代価を払ってである。マルクスが資本性的社会諸関係、階級闘争、歴史の運動、等々を『客観的に』理論化したなどと言ったところで、それほど的を射た言い方ではない。実際には、社会秩序の激変、社会秩序の現実的転覆、ただ今現在に解放を求める死と生の言葉、マルクスはこれらを長期的な弁証法的革命のなかへ、経済の無限螺旋でしかなかった螺旋状の目的のなかへ『客観化し』たのである。
 人間の解放に現在的で直接的な内容を与える呪われた詩、非公式の芸術、ユートピア的エクリチュール一般は、共産主義の言葉そのもの、それの直接的予言であるべきはずであった。ところがそれらは共産主義のやましい心でしかない。それというのもそれらのなかで何か人間的なことが直接的に実現しているからであり、したがってそれらは、革命の決定的延期の次元でしかない革命の『政治的』次元に対して仮借なく異議を申し立てるからというわけである。それらは、断絶の象徴的状況から生まれる自然発生的な社会運動の言説上の等価である(象徴的というのは、普遍化されないこと、弁証法化されないこと、想像上の客観的歴史という鏡に照らして合理化されないことを意味する)。したがって、詩(『芸術』ではない)が根底で結びついているのは社会的ユートピア運動や『革命的なロマン主義』だけであって、決してマルクス主義そのものとは結びつかない。言い換えれば、解放された人間の内容は根本的には、現在と未来の分離の廃棄ほど重要ではないということである。昇華(理想化)の次元たる時間形式の廃棄は、政治の理想主義者である弁証法の理想主義者が決して許さぬもので、彼らにとって
革命は歴史のなかで蒸留されねばならず、革命は予定通りやってくるべきものであり、諸矛盾の陽光に照らせれて熟さなくてはならないものなのだ。さてそうなれば、ただちに革命は考えることができないものになり、我慢のならないものになる。詩とユートピア的反乱が共有するものは、根源的現実性、目的性の否認である。それは願望の現実化であって、決して未来の解放へと悪魔祓いされるのではなくて、今すぐここで、死の衝動のなかで、生と死の権限的両立性のなかで要求されるものなのである。これが喜びであり、これが革命なのだ。それは革命の政治的取引帳簿とは一切関係ない。

 マルクス主義的分析は人間を無所有のもの、疎外された人間とみなし、この人間を全体的人間、全体的他者と結びつけるが、これは人間の未来の理性(悪い意味でユートピア的)であり、人間を全体化の企てへと指定する。これに反して、ユートピアは疎外の概念など知らない。ユートピアは人間や社会はすべて、社会の各瞬間に、象徴的要求のなかで、全面的にすでにそこに存在していると考える。マルクス主義は、革命という透かし模様を通して読み取られる成熟途上の現実としてしか、反乱や社会の動きを分析しない。それは、完全とか理性の完成された段階とかを述べたてる人種主義であり、それ以外のものをすべて乗り越えられた事物の無のなかへ送り返してしまう。まさにこの点で、マルクス主義は『科学的』段階においてすらそのなかに残存するすべてのものからみて、依然として根本のところで疎外に狙いを定めた哲学なのである。『疎外』を武器にした『批判的』思考の他の側面はやはり依然として分割された実存にとりつく全体的本質である。どころでこの全体性の形而上学は分割の現在的現実と全然対立するどころか、それと一体をなしてさえいる。主体が歴史の終局で自己の透明性あるいは全体的『使用価値』を再び見いだすという展望は、本質の再統合と全く同じ程度に宗教的である。『疎外』なるものはやはり主体の想像物であり、たとえこの主体が歴史の主体であってもそうである。主体は全体的人間に再び成る必要は無いし、再び自己を見い出す必要も無い。主体は今日では消え失せる必要がある。主体の全体化なるものは、経済学が等価原理によって封印されるように、主体の同一性によって封印された意識の経済学の目的への目的である。それこそまさに廃棄されねばならぬ当のものであって、失われた同一性とか未来の自立性とかいった幻想で人々を子供だましにあやしてはいけない。
 人間とは『他者』であると主張したり、人間の最も近しい願望は再び『自分自身』になることだと説得にこれつとめたりすることなどは、何たる愚行であろう。人間はそのつど全面的に現存しているのだ。社会もまたそのつど全面的に現存している。クロードロウ、ラッダイト、ランボー、コミューンの戦士たち、山猫ストの実行者たち、1968年5月の人々、それは透かし模様の背後を語る革命ではなくて、かれらこそ革命である。通りすがりの概念などではない。それらの言葉は象徴的であり、本質などは目ざさない。それは歴史以前の、真理以前の言葉であり、分離と未来の全体性以前の言葉である。これだけが世界を分離せざるものとして語りつつ、世界を本当に革命するのである。
 可能も不可能も存在しない。ユートピアは、政治経済に反対して注がれたすべてのエネルギーのなかに現存している。しかしこのユートピア的な暴力は決して蓄積されず消え去っていく。それは、経済的価値のように死をなくそうとして肥えふとろうなどど努めはしない。それは決して権力を欲しようともしない。『搾取されるものたち』を権力を獲得するというただそれだけの歴史的可能性のなかに閉じ込めることは、史上最悪の革命の簒奪であった。これに照らしてみると、経済学の諸公理がどれほど深刻に革命的展望を掘りくずし、包囲し、逸脱されたか、がわかるというものである。ユートピアは権力と現実原則に反する言葉をのぞむ。それらはシステムとそれの無際限の再生産の幻覚でしかないからである。ユートピアは言葉だけを欲する。言葉のなかへ消えるために。

                         『生産の鏡』 ジャン ボードリヤール 1981





猫次郎様
 
こんにちは、
先日、講習会の問い合わせをした者です。
 
ブログでは、なんてステキなご夫婦なんだろう、と、
いつも感動しています。
 
また、グラフの会への参加は、
残念ながら、叶わなかったようですが、
家で勉強しますので、
選定銘柄を、教えていただけましたら、
うれしいです。
 
1 氏名  
2 参加希望日、時間 3つぐらい順番で優先する日にちの希望を書いて下さい。
 
3 月足グラフ筆記枚数 10
  場帳の銘柄数 11
 
4 簡単な相場歴と自己紹介 当てもの売買で   の損失後、林投資研究所を知る。
                    ネットにて、偶然猫次郎さんのブログにたどり着き、
                    「サッカーと相場は、まぐれで勝つのではないかも」
                    と確信する。
 
                    9107川崎汽船 を主に見ています。  
 
                    子供に教えられるようになりたいので、
                    年いってますが、努力します。どうぞよろしくお願い申し上げます。

上記のようなメールを戴いた。文面からはグラフの会に参加希望でメールしたが返事が無いので諦めるから銘柄をメールして欲しいとのご趣旨だったのだが、あいにくどんな理由かは分からないが、当方はメールを戴いていないというのが事実である。この方以外にももう一人同じようなメール未着の方がいらして、その方は結果請求のお尋ねがあって初めてこちらは未着に気がついている。
メールは必ず届くものだという思い込みが僕たちの考えの甘さということであり、電子空間ではこの種のどうしようもない事故だの、原因不明のトラブルだのが毎日、毎時、いやというほど実際は起きているのだろうと推測される。理由はチンプンカンプンだが、使用者にその結果は嫌でも降り掛かるという意味で、「あまり便利なものは信じないほうが安全だね」と僕も思うのだ。
当て物売買で相当額の損失でもあまり痛い感じは無いから、きっとお金持ちの奥様なのだろうし、ご自分が覚えて子供さんに伝えたいという目的がしっかりとされているのだから、日時が合うのなら諦めないで来られたら良いと思い、当方は勝手に「受講票」を昨日送付した。田舎のポストは集配が一日1回しかないので、きっと来週になればお手元に届くかと思われる。いらっしゃるのかどうかお返事をお待ちする。

グラフ閲覧会の日程が決定したので お知らせする。

 日時  7月19日 土曜日 午前10時 JR熱海駅前 駐車場 待ち合わせ(猫が行くのでタクシーにみなさん割り勘で乗ってね)
     11時から4時まで、4時撤収で延長無しです  当日宿泊は不可能ですのでご自分でホテルなどをご用意ください。熱海に
     いくらでも安い場所があると思います。(7800−9800円ぐらいであるはず)
 場所  べラビスタ南箱根 ゲストルーム
 持参品  月足グラフ、折れ線グラフ、場帳、玉帳、勉強ノート、お弁当(食事をする時間も場所もないです、飲料はあります)
 講座  低位株の売買法の概略と道具の整備について 1時間程度
     その後、希望者は15分程度の練習法などの個別相談など
  まだ人数に余裕があるので希望者はメールをください。参加証を送ります。

相場を始めて、大きな利益になっているような人はそもそも僕のブログなど最初から読む必要性はないのだから、ご自分で勝手にたくさん儲けて楽しい暮らしをされているはずである。だから僕のサイトをご覧になる人は、ごく一部の友達のプロまたはプロ的な売買をしている人がマンガを見るような気分で訪れる以外には、全員が現在は上手く行っていない負け組の人たちののぞき趣味と僕は考えている。(まあ、現実的には鴨ですね。)
その人たちは儲からないから売買をなんとか上達しようという意欲はあるのだが、「やり方」についての考えに「酷い思い違いをいている事」に気がつかない。だから何度も同じクドイことばかり書いて、こちらも嫌になるし、なんでこの人たちは「日本語」をちゃんと読まないのだろうと不思議な気分にいつもなる。今のまま続けると同じ結果が繰り返されるからそれが嫌なら相場を辞めるのが正解である。それでもなんとかやり方を自分で変えて上達したいという人のためのヒントになるために「長いグラフぐらいは最低見たほうが良いよ」という「おせっかいの会」である。それ以上でもそれ以下でもないからあまり期待しないように。細かい事は、感覚と技術がないと出来ない。これは100%出来ないのだ。だから出来ることからする以外に方法が無い。だからしたい人はおやりなさい。そのやり方は教えますよという会だ。
 大半の初心者の人の過ちは、相場の成功は幸運かどうかで決まるという考えだ。上がる(または下がる)銘柄が何かがわかるとすぐにお金が儲かると本気で思っているし、こういう会に来るとそれを教えてくれるはずだと思い込んでいる。「馬鹿良いうんじゃないよ!そんな大事なこと、俺がなんでタダでオメーに教えるもんか!」とは彼らは不思議にも思わないのだ。事実とはそんな事は誰にもわからないのである。どれがいつどのぐらい上がるかがわかれば、誰だってほとんど苦労なく大金持ちである。僕が未だに相場をしているのは、「大した金がない」からであろうし、それでも何とか遊んで相場だけで食えているという程度の事でしかないという事実をまず理解願いたい。大きな夢を見るのはご勝手であるが、方法論として相当に肉体的、時間的にヤバい方法論であるという事はクドイほど何度も書いている。だから仮にあなたがその方法を選ぶのなら「文句を言わずに言われた事以上の事を少なくとも実行しないかぎり成果など出るはずが無い」という考えを持つ事だ。それが職業としての相場という事である。幸運の要素は、その基体の上にのみ花咲く。花が咲くにはどんな花でも時間がかかることは言うまでもない。途中で枯れるか間引かれる花のほうが多いのが事実である。300で2か3しか咲かないこともあったのが事実なのだ。そういう仕事だからそれなりの覚悟が必要と思われる。「覚悟」をするのは僕ではない「あなた」なのである。僕のブログに花の写真が多いのはそういう僕の考える仕事としてのユートピアがこのようなものであって欲しいと願うロマンチシズムの記号であるということだ。僕は本当は相場師以上に、なりたかったのは革命家か、小説家だったのだから、、。

堕落論

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 もうきっと30年以上前の記憶だったろうか?ピーターフォンダとジェーンフォンダの「黄昏」という映画を見た。たしか”On the Golden Pond"という原題だったかと記憶している。老夫婦は美しい湖畔の家に住んでいる。花を育て、ボートで釣りと読書の毎日だ。
 引退した彼らの所に、離婚した娘が子供を連れて帰って来る。父親役をピーター、娘役をジェーンが演じて、そこには豊かなアメリカ中産階級の理想的な老後の生活があった。湖畔は紅葉で金色に染まる。人生の終わり付近の「美しい成功のメタファー」。そのメタファーに影を差すのが、娘の失敗というのが何故がフロイト的というのがいにも、、、という感じ。エロクトラ COMPXというところなのか?お話の筋の細かい所の記憶は無いが、たしか孫が湖で遊んでいて事故にあう、それを見た爺さんが助けようとして命を落とすというような流れだった記憶があるが、、、よく覚えていない。頭に残るのは「アメリカ人の成功の終わりはこういう美しい風景の中の暮らしということか?」という印象だった。僕自身ががまだ若く、「老い」というものを意識の外に置いていた時代ということもあって、ストーリーの筋道よりも「紅葉、黄葉の美しさ」ばかりが記憶に残った映画だった。
 現在自分が当時の彼の年に近づいて、湖畔ではないけれど都会を離れて一人高原の家で生活していると同じように「結婚した娘が孫を連れて離婚して帰ってきたらどうだろう?」と思う事がないでも無い。「やめてくれよ!それはありえない。」とお祈りするしかないのだが、恐らく彼女が離婚することは無いだろうし、仮にあったとしても僕の所にくることはあり得ないだろうと思う。「金」ぐらいは少しよこせと無心にくることは多分あるだろうが、ここで娘と孫が一緒に僕と生活をするということはあり得ないだろうし不可能だと思われる。彼女がその後の生活の糧となる仕事がここには無いからだし、孫に適当と思われる教育が無いからでもある。彼らが集団社会に同化して生きる限りにおいて、高原の孤独な生活はあり得ない選択であり、「不可能な交換」であって、この不可能性とは時間と手段という主に二つの不可能性の現前である。それは僕の老後の生き方ということと娘と孫の現在の生き方ということの交換不可能性ということでもある。この交換が容易に可能なら、高原は若い人の明るい声で満ちているはずだが、そういう声がするのは5月の連休か夏休みに限られる。だからこそ、それが country ではなくて resort という名前で呼ばれることにいつの時代からはなってきたのだろうと想像される。
 昔の話をすると何を今更と笑われるだろうが、30代の中頃、会社経営をしていて偉く儲かった時が一時期あった。そうどんな馬鹿でも仕事をすれば金になったあのバブルの時代である。売り上げは前年比3割も伸びるし、経常利益は倍加する。帳簿上の利益を消すので、大きなメルセデスは買うは、社員旅行でハワイに若いのを全員連れて行くは、それでも利益を消し切れない。だから銀行の口車に乗せられて河口湖という山梨にフィットリゾートクラブというテニスコートがあるリゾートクラブが出来たので、そのクラブの敷地の隣の豪華リゾートマンションを銀行融資を9割付けて法人購入したことがあった。若気の至り!お隣の部屋は巨人軍のN選手。現在どこかの監督さんのお部屋であったかと思う。5000万を少し超えていたかな。買った当初は月に2回ぐらい金曜の夜に500SECのV8を駆って中央道をぶっ飛ばして2時間ぐらいで部屋についた。当時からV8のデカイ親父エンジンが好きだったということだ。暴力的なトルクでガツンという加速は、今のエレガントなCLの味付けとは全く異なるが、若造の成功の満足には「わかりやすい」力能のカタチであったということだろう。30代でそれに乗るということは5年前に労働組合の委員長をしながら手弁当で逮捕された同僚の処遇を会社の労務担当役員と折衝するのが仕事だった僕の「成り金」のわかりやすい記号的な表象行為である。ギャラは10倍、だが休みはゼロ。金をいくら稼いでも使う時間はゼロというメチャ忙しい時代だった。周囲は綺麗なオネーチャンがてんこ盛りの都心のデパートだから、ゴチソウよりどりみどりなんだが「時間」だけが無いというそんな暮らしだった。娘が生まれて一緒によく家族でドライブしていた。その前に乗っていたのは新車で買ったHONDA レジェンドクーペだったと思う。メルセデス500SECに替えて娘を初めて載せて山梨に走った時の事だ。『パパ、こんどの車はすごく良いね。アイチャンはこれが好きだよ。」5歳の娘がそうはっきりと言ったのを僕は今でも覚えている。小さな子供にもわかる「良さ」というのはどういう事だろう?きっと日本企業が追いつけ付けない永遠の距離感がそこにはきっとあるのだろう。その距離が縮まったかどうかを僕は知らないし知ろうともしていない自分がいる。それで自分の老後がすむのであるのなら知る必要はおそらく無いんだろう。それを知るのはおそらく娘の仕事であるとフと思うのだ。
 日本人の中産階級の老後はコンパクトだなあと思う。いや僕だけのことなのかもしれない。高原の美しい庭で、彫刻を見たり、上手いコーヒーやタルトを食べて午後を妻と過ごす。お金なんてなくても緩くて美人の妻がいればそれで十分じゃないのかと思うのは男としては堕落だろうか?(笑)

A hot summer has come.

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  クレマチスの丘で今日は女王様のリハビリのお伴を仕る。この庭は今が一番美しい。クレマチスとバラが咲き乱れ、バラの香りでガーデンはむせるほどだ。平日のせいもあり、空いているお庭に涼しい高原の風に吹かれながら花は緑をぼんやりと眺めて日光浴を楽しむのはわかりやすい幸福だと思う。夕飯の買い物に寄ったスーパ−で今年初の枝豆を買った。夏が来たなあと思う。今日は冷シャブ用の鹿児島牛が特売なので2パック買った。
帰宅してゆっくりと場帳を書く。指数は高い。今日は単純平均が301円と大台に乗っている。TOPIX1269で
3月の戻り高値を更新したので、早晩1月高値トライとなるのだろう。そんなに時間がかかりそうな感じも場帳からはしないのは、過熱感ないジリ高で循環的にジワジワ戻るという物色のされかたをしているようだ。連続で新値を取るが、ポーンと突破するような派手さで上げる低位株はほとんどない。売り方はこれでは押目がないから踏みにくいんだろうと思う.売り残は1月高値時と並ぶか超えるという状態で、過熱感がないから、売り増すという団子状態だ。ここで実需の買い(年金、投信等)が入ると結局は時間の問題で踏みになって、ポーンと離れて大きな動きになるのかもしれない。売りを誘ってそれに乗れば大けがということにきっとなるのではないかなと思う。たぶんまた東京で電車が止まる事故が増えるだろう。いつもの事だが、、。

 DAXが10000ポイント、SP500もそろそろ2000に迫ろうかという場面だから、出遅れた東京にも資金がシフトされる可能性は高いだろうと思われる。225先物で怪我をする人がきっとまた増えるのではないか。
2012年晩秋からの上げ相場で、大きな損をして相談に来た人は全員が空売りの損失を抱えた人である。やり方は一応ロングショートなんだが、あまり資金が大きくない人が(5000万未満)低位株の根玉を持って目先の人気株や225先物を大きく空売りするというおこずかい稼ぎのやりかたで、失敗は結局売りの比率が大きくなり過ぎで、戻り天井付近をまとめて団子で売りの載せた人という無理筋なのである。保合いのレンジ相場なら10−10ぐらいで毎日とか数日に1回、それなりのおこずかいが取れる、それが月給ぐらいになることは稀でないからいつの間にか味をしめる。調子に乗っていつのまにか10−10が20−10となりひどいと30−10ぐらいの比率になってしまう。仕事の合間に携帯電話で売買するようになると破綻はもうすぐそこまできている。場帳をちゃんと見ないでザラバで50枚も100枚も人気株に売り向かい、そこでストップ高にひっかかり大損するというようなケースなのだ。こんなことは馬鹿げた自殺行為は一度も僕は言った事も無いし教えたこともないし、第一1日1回、朝也で逆張り分割すればそんなことになるはずが無いのに、いつの間にか売買が崩れてしまうのだ。
 大抵そんな人は月足グラフや折れ線グラフを書かなくなって、場帳さえ辞めてしまう。「書かないでも俺は取れる」という錯覚なのだ。いわばデタラメの売買になっている自覚が無くなる。やがてザラバ売買を携帯でやるようになってしまうと自分の売買が崩れているという自覚がいつの間にかなくなる。結局、資金管理を忘れた丁半の当て博打になっている自覚がないのだ。相場を初めて20年もたったような僕と同年代の良い大人でもこんな馬鹿げたことをいつの間にかしてしまうのが相場の怖い部分なのである。多分、低位株の値動きは普段は動きが無い時間が長いから、焦れて何かをしたくなるという事なんだろう。彼らには相場とパチンコ、競馬がきっと同じなんだろう。天井値がどこかなど誰にもわからないのだから、その手前で大きな玉を団子で売れば、心理的にも資金的にも耐えられるはずがないのである。耐えることが出来るような人はもともとこんな馬鹿げた必敗の建てに追い込まれるような方法は絶対に取らない。上手い人は売っても買っても慎重なのである。どこでどれぐらいのリスクなら自分が取れるのかを分かっていないのだから、高速道路をブレーキの利かない600馬力の車を目隠しをして走る以上のリスクを取っているという自覚がいつの間にかなくなるのだ。事故はだから必然だ。いや事故というより自殺なんだろうと思う。
 「毎月こずかいが欲しい」という馬鹿げたリーマンの消費習慣に毒されているからだろう。金を月単位でしか捉えられない時間感覚でもともと相場をやるのが間違いではないかのかと僕は思う。うねりが3ヶ月の整数倍ということは知識のある者なら誰でも知っている。「テメエの懐具合で相場を張るんじゃねえ!」そう昔の相場師は言ったそうだが、そういう馬鹿ばかりが増えているということなのだと電車が止まるたびに思うのだ。もっと慎重にやってほしいものだと思う。僕に電話がかかったり、メールがきた時は既に手遅れなのは言うまでもない。なんと言われるかも彼らは知っているのだ。「全部即座に落として○にしろ」以外に言いようが無いだ。それをすればオケラになるんだろうが、それを人に言われないと出来ないような1/100人前なら、「相場なんかに最初から近寄るんじゃんねえ!」と一応書いておく。
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