経済の向こう側にあるもの、遊び、非労働、疎外されていない労働と呼ばれるものは、目的のない目的性の支配として定義される。カント的な意味で、それが美学であり、またそうであり続けるのはこの意味においてである。それには、ブルジョワイデオロギーのコノテーションのすべてが含まれている。そして、実際に、マルクスの思想は、もしそれがブルジョワの道徳を清算することができたとしても、この美学にたいしては無防備のままである。ブルジョワ思想の美的、人間主義的ヴィールスを受け継いでいるのだ。なぜなら、質的なものという概念はすべての目的性を保持しているからである。その目的性には、使用価値という具体的な目的性もあるし、目的の無い目的という、観念的、超越的な目的性もある。ここには、遊び、自由、透明、非疎外といったすべての概念の欠如、革命的な想像領域の欠陥があるーーー人間能力の自由な運動である遊びの理想型においてすら、われわれはいまだに抑圧的な非昇華のプロセスにあるという点で。実際、この遊びの領域は、人間の合理性の完成として、自然をたえず物に変えて行く人間の活動、自然との交換の支配の弁証法的な勝利として定義される。遊びは生産力の十分な発達を前提としている。遊びは、現実原則と自然の変形との「うしろにぴったりと」くっついている。マルクスがはっきり言っているように、遊びは必然の支配に基づいてのみ開花できる。つまり、遊びの領域は労働の彼岸にあろうとしながらも、労働の延長の中にあることによって、労働の束縛を美的に昇華させたものに他ならない。われわれはつねに必然と自由という問題設定のなかにある。これは典型的なブルジョワ的問題設定であって、その二重のイデオロギー的表現は、それが存在し始めて以来つねに、現実原則の設定(抑圧と昇華===労働の原則)と、観念的超越へのその形式上の超克であった。 労働と非労働。「革命的な」テーマ。おそらくそこには、すでに私が論じた構造的なニ項対立の最も微妙なかたちがある。労働による搾取の終わりという目的は、たしかに非労働によるさかさまの楽しみ、自由な時間というさかさまの蜃気楼である。(束縛された時間/自由な時間、充実した時間/空虚な時間ーーー時間の領域のヘゲモニーを確固としたものにするもうひとつのパラダイムも、生産というパラダイムにほかならない。)非労働は、労働力の抑圧的な非昇華にすぎない。ーーー二者拓一でなされるアンチテーゼ。非労働の領域は、たとえそれをすぐにはレジャーの領域や現在おこなわれているレジャーの官僚的組織化の領域と混同させないとしてもーーーこの領域では、死と苦行への欲求と、社会制度による責任の負担は、労働の領域と同じほど強力であるがーーー、またそれを本来の意味で受け取るとしても、この非労働の領域は、「全体的な無拘束」、個人が価値として自己を「生産」し「表現」し、(意識的または無意識的な)真の内容として、それ自体を「解放」する「自由」以外の何を表現しているのか。要するに、非労働の領域は、最後にはそれ自体の自由によって満たされなくてはならない。空虚な形態としての、時間と個人の理想状態である。価値の目的性はつねにそこにある。それは、生産活動の領域のばあいのようには、特定の内容のなかに刻み込まれてはおらず、今や純粋形式として現存することになるが、それでも生産に劣らず決定因たりつづける。
反絵画、反芸術、反演劇のばあいに、絵画、芸術、演劇の純粋な制度的形式が、内容をかいた状態で輝くのとまったく同じように、非労働においては労働の純粋な形式が輝いている。したがって、この概念は経済の廃棄として空想されることができる。この概念は、経済の領域に、その廃棄の記号としてーーー記号としてのみーーー入ってくる運命にある。この概念はすでに革命家たちからは離脱して、「新しい社会」の綱領に入る。
「生産の鏡」 1981 ジャン ボードリヤール
2007年をピークに人口減少社会が現実のものとなった。おそらく僕が棺桶に入る頃には、具体的な影響がかなり明瞭に現れてくることだろうと思う。都会に住んでいた時には、街中がヒト、ヒト、ヒトで充満されて都市の人口減少は切実には感じ取れなかった。しかし田舎に暮らしてみれば、バブル時に作られた要塞のような高原のフラットは108戸に37世帯が現在定住している。3年前の2倍だから、都会を離れて逃亡して来た僕のような人たちが確実に増えている。年齢層は60代の引退族が中心だ。時々、その子供や孫たちが遊びに来て普段は聞こえない高いトーンの笑い声が通路に響く。
全てに失敗した団塊世代とその後の僕たちに失敗が、強烈な疎外を社会に蔓延させてたまま若者たちは強者どもの夢の後始末を余儀なくされている。無力な個人はなす術も無い。お気楽な逃亡を企てられる人たちは別として、現実に生活がある多くの人たちは生活の糧を求めて、投資という市場に誘導されるという「現象」が常に起きるが、ここ数週でサイト閲覧から僕のところに銘柄照会とかグラフの会の参加希望とかでメールを戴く機会が増えた。
「頭の切り替え」と「観察眼」というのことは投資で一番重要な資質の一つだろうと個人的には思う。投資の世界で成功する人は、「少し変わった人」が多いと経験的に思う。どちらかと言うと僕を含めて「精神分裂」気味の人=二重人格というか矛盾する相克を受け入れる余地、器があるような人が多いような気持ちになる。だからああ言ったこととこう言ったことが相互矛盾を引き起こすというような事態がしばしば現実には起きるのだ。
メタ言語的着想が必要だと何度も書いているが、僕たちはきっと一般の人が生きているクリアカットに答えがでる
分かりやすい世界で仕事をしてないという部分が大半だからである。
新しい世界に入る人たちに必ず注意して欲しいことがある。
1 現在の建玉を落として丸にすること。新しい考えと道具とやり方を学ぶ時に、以前の過ったやり方を同時に並行してやれば、どちらも失敗してしまうのが最初からわかっているからである。
2 倹約貯蓄のために投機をしても上達しない。上記のボードリヤールのテキストを10回ほど読んで欲しい。これは「生産の鏡」という1981年のテキストの引用だ。価値の目的性を誤るとお金は意味を失う。したがって道具のコストを気にするようなら最初からしないほうが宜しい。時間の無駄で上達は不可能である。
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