白梅が咲いた。テラスで雪に埋もれていた白梅の莟が綻んだので室内に入れたら一気に開花の様子。春が来たなあと思う。養老先生の本を2冊寝しなにベッドで読んでいるが、「自然」に触れる時間のウエイトを上げろという主張はドンずまりの資本主義に新しい地平を開く鍵かもなと感じる。発想を変えて、幸福の鍵がどこにあるのかを視点の移動をしてみれば、自分の持ち時間のウエイトを少しだけでも「自然」のただ中に入れることで違った世界が見えてくるはずだ。自然は危険で人より大抵は強い。人間とは無関係な時間軸を持っている。こちらの都合に良いようには動いてくれない。どうにかしようとしても無駄で、こちらが相手に取り入るしか手が無いことが大半である。そういう不便を自然は思い出させてくれる。都会にいれば自然はないが、田舎にいてもその自然の多くは作られた自然が多い。里山もそうだし別荘地もそうだ、人工的な自然だから、厳しくないし、慣れが無い人でもなんとか入っていける初心者向けの自然である。年を取ればいきなり無理をするよりも、そういう半端な自然でも良いから、都会の時間と強度から離脱して、人工的な環境からすこし自然の力が強まる場所に移動すると文明のありがたさというのが実感できる。少しばかり雪が降っただけで通常の暮らしが成立しないことがわかる。夜は道が凍って危ない。これで停電でもすれば一巻の終わりという感じが濃厚になる。トイレも流せない、照明がロウソクか懐中電灯では多くのことが出来なくなる。暖房が無いと寒くてなかなか眠れない。湯を沸かすのにも一苦労である。災害を受けた人の気持ちが少しは理解できるというものだ。家を流され、家族を殺され、自然にみんな持っていかれた多くの人たちは、それでも自然の中でなんとか生き抜いていくしか道はない。悲しみが少し柔らいだら、悲しんでばかりはいられない。今日をなんとか凌いで生きて行くというのは自然の中にいるほうが、都会にいるよりはしんどい事が多いと思う。そのしんどい分だけ、有り難みがあって喜びも深いという複雑な感情を人間は持ち得るのが救いなのだろう。
2年前から年甲斐もなくハイキングのような軽登山をすこし始めて見たがと、自分の喜びの質量が変化するのが自覚できる。何一つ不足するモノが無い便利で贅沢な暮らしにも満足できない自分の心と身体が、実はマテリアル以外の何かを強く欲しているのが自覚できるのだ。同じ寿司を食うのでも、腹ぺこで食うそれは実に上手い!必要性とは僕の場合は確実に「不足すること」の向こう側にしか今は発見できないという事実である。ややこしいことだが、満たされた欲望を一旦捨て去ることでしか、より強度の満足を得られないという都会病にいつの間にかかかっているのだろう。相場なんてその最たるものだろうと思う。でも適当に買って、後は忘れてしまえばどうということはない。あってもなくてもそんなに生活に必要なものではないし、ないならないで生きて行くことは可能なのだから。
久しぶりに7時に早起きして、東京に変えるマダムを駅まで送った。8時39分の東京行きに乗せるために送迎の軽自動車の車列が駅前に並ぶ。やはりこの地域の人も熱海か三島まで電車で通勤通学するひとがかなりいることがわかる。多くは学生かリーマンなのだろう。農家の子弟たちも現金収入が欲しければ、農業を専業にするような選択はしない人が大半だろう。工業製品が欲しければお金で買うしかない、農家なら米や野菜は物物交換が効くが、それ以外のものはお金を通じてしか交換が出来ない現実に直面する。ここでも都市と田舎の暮らしの切片があるいは周縁が浮き彫りになる。交換価値を表象する通貨という幻想に支えられた都市中心の世界観だが、ささやかな表象たる軽自動車の車列に一台だけ巨大なメルセデスは異様な映り方をしていることを強く自覚しつつも、僕はそれを止めることは恐らくないのだろう。NYはほぼ元の高値に戻った。東京もほどなく新高値に進むだろう。春が来たという事だ。
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