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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

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Teach us to care or not to care

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 それでは、世界が意味を持つべきなのだろうか。それこそ、真の問題だ。世界が仮に意味を持たないと、仮に認めることができるとすれば、われわれは形態や外観や衝動のゲームを、それらの最終的な行く末を気づかわずに、楽しむことができるだろう。世界が意味を持つという要請が仮に存在しないとすれば、貨幣のうちに世界の一般的等価物を見いだす必要は無いだろう。
 シオランが言ったように、人生が意味を持つと信じた時点で、はじめてわれわれは落伍者に過ぎなくなるーーーそして、それ以来、人生に意味などありはしない以上、われわれはみな落伍者となる。それにあの物神化された貨幣が純粋かつ単純な不在を表しているからこそ、貨幣は投機的で指数関数的な存在となり、それ自体がクラッシュと荒っぽい混乱を運命づけられているのだ。世界全体が貨幣を通じて普遍化される傾向にブレーキをかけたいなら、まず意味の要請を除去しなければならない。世界がますます意味を持たなくなるので、この要請はますます人々を失望させるものとなる(世界はけっして意味を持ったことは無いし、他の何ものかと交換可能だったこともないが、今日では、世界に交換用の等価物をみつけることがますます困難になっている。われわれに見つけられる唯一のものは、ヴァーチャルな等価物にすぎない)。
 こうして、われわれは意味の想像力と真実の要請との間で分裂状態にある。ますますありそうになっている仮説は、世界は最終的真実を持たず、世界そのものが決定的な幻想なのだという仮説である。意味と無意味の間で、絶対的な選択を迫られるのだろうか。だが、率直なところ、われわれは選択などしたくない。意味の不在は、多分耐えられないものだが、世界が決定的な意味にとらえられるのを見とどけることも、同じように耐えられないはずだ。貨幣の奇跡が介入するのは、まさにこの点である。貨幣は、われわれが意味と無意味の間で選択をせずに、普遍的妥協を見いだすことを可能にしてくれる。貨幣は交換のための普遍的合目的性としての役割を演じる。フェティッシュが代理の性的対象の役割を果たすように。
 この貨幣は、したがって計算可能な等価性を持たないし、何かの普遍的等価物でもないーーーーむしろ、無の普遍的流通の等価物なのかもしれない。それはフェティッシュとなる対象物のように、肉体をもたない記号なのだ。金銭としての貨幣は生きた貨幣の対極にある。生きた貨幣のほうは純粋な記号、不可能な交換の、かたちをかえた記号である。金銭のほうは、不可能な交換の、欠如による記号、フェティッシュ化された記号にすぎない。この種の記号は絶対的な準拠枠となって、もはや誰にも釈明する必要がないし、買い戻されることもない。この点で、それは債務に似ている。事実、われわれに無限の債務をもたらすのだ。
     生きた貨幣ーー幻想の特異性  ボードリヤール 「不可能な交換」より転載

フランスの大統領のゴシップは楽しい。とにかくあまり仕事をしないで受けを狙った演説だけして、あとは大抵美女の尻を追いかけ回す。そこには倫理も正義も外聞もない分だけ、フランス人のスケベな正直さが見え隠れしていると感じるのはきっと僕だけではないだろう。「いい年こいてよくやるぜ」というのは負け犬の遠吠えで、出来るものなら自分がやってみれば良い。小泉が篠原涼子を囲ったとか阿部チャンがキャリーパミュパミュを買ったとかそういう噂で文芸春秋が大見出しを打つようになれば、靖国に行ったぐらいで多分近隣諸国から侮られるようなことにはなるまいにと思うのだが。それには世間体という幻想を犬に食わせる必要がある。
それにしても女性は元気がよい。というか元気のよい日本人はすべて女性なのだから、さっさと誰でも良いから女性を首相と天皇にしてみれば良いと思うのだ。僕は女だらけの環境で育ったから、彼女たちの残酷さは骨身にしみて知っているから、グローバリズムを推進するにしてもしないにしても女性のほうが多分徹底して戦うだろうと思われる。サッカーひとつとっても女子は世界一なのに男子はベスト8にも入れない。闘争心のレベルの差は歴然としている。なんでこんなに女が上手くいって、男はダメなのか?と自問すれば、それは目先の小さな幸福を徹底して彼女たちが追求するからではないか?とフと思う。「好きか嫌いか」という選択にそれは冷酷に現れる。嫌いなことはしないし、好きなことを徹底する。選択を留保するという逃げの無い世界に彼女たちは共通して生きている。女性誌を見ると、ファッションと食べ物とSEXと美容と旅行に集中して現れる。それが好きなら他のことなど考えもしない。金がかかることばかりなのだ。その実現をサポートする男が彼女たちの気に入りのペットなのだ。つまり彼女たちこそが生きた貨幣なのである。貨幣は交換と流通を通じて集中と増殖を繰り返す。そしていつかやがて大きな政治性を持つようになる。
 建てると落とすがセットの行為であるように、食べると寝るもセットの行為だと言う持論だから、何か美味しいものを食べるという基本的な小さな幸福を女性並みに大事にするというのは発想や行動を変える契機となる。知らないことは教えてもらうのが早いから、よくレストラン本とか料理家のレシピ集を買う。最近使うのが静岡新聞社のムック本で静岡県の贅沢レストランで打率6割と言った感じで重宝した。白崎裕子の「にっぽんの麺と太陽のごはん」というオーガニックレシピもなかなか宜しい。地粉で打ったうどんとか玄米の炊き方とか手の感触が鋭くないと食べものにならないから、真剣にやらないと美味しく出来ないのだ。温度とか水加減とか粘りとか時間とか手際とかとにかく料理は手がかかる。感覚とか感触とか、面倒なことばかりなのだが、少しでも繰り返して上達が少しは自覚できるレベルにまでたどり着くとこれが嵌るということになる。そうなれば僕は純粋な記号として交換が不可能な流通過程に入り込むことができるかもしれない。つまり計算不能な異物としての物神性を持つことが可能となるかもしれない。仮にそうなれば代替としての貨幣の意味は失われるだろう。身体が直接の貨幣性を持つことによって、僕は生きた貨幣として人類という、あるいは経済という絶対的な準拠枠をスルーして不可能性の記号として逃走する生き延びた猫になるのかな?その時、猫が言葉を話せたならばきっと質するだろう。
 Teach us to care or not to care,
   Teach us to sit still.

不可能な交換

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世界のあらゆることがらに意味と目的をあたえる(=交換可能にする)というわれわれの欲望は、クローンや人工知能を含むバーチャルリアリティーの全面化によって、ついに満たされたかのようだ。しかし、ゲームは終わっていない。リアルさや他者性を消去していく世界で、交換不可能性(不確実性)自体をルールとした新しいゲームが始まっているのだ。
 ジャン ボードリヤール 「不可能な交換」  2002 紀伊国屋書店 より転載

月に一度月足グラフを更新すると現実の相場とは関係ないことを思い浮かべることがある。グラフの横幅は700ミリだから2枚張ると1400ミリとなる。1ヶ月は3ミリで1年で36ミリだから38.8年分の長さが書けることになる。大半は1983年からスタートしているから2021年で用紙の横幅が一杯になる予定だ。今年も含めてあと8年で期日が満了する予定だが、仮に元気で相場を8年後もしているとすると、次の用紙を継ぎ足すことになるのだろう。現在なんとか2メートルの大理石のイタリア製のテーブルを使って書いているが、8年後はこのテーブルで作業することは不可能になるだろう。3メートル程度のテーブルを用意しないと記入が困難になると思われる。保管のために現在巻いている状態も無理になるだろうから、フラットな大型の棚と書庫でも用意して水平保管することになるだろう。どっちみち保管庫等の大工仕事になるはずだが、そんなことまでして相場がしたいのだろうか?と自問する。相場は生活の為にしているはずだったが、いつの間にか生活費用とは掛け離れた金額のロットが飛びかうようになって、使い切れない金を売った買ったとやっている自分が馬鹿らしい気もいい加減してくる。目的と手段という意味の相場でないのなら、それを職業とは言えまい。かといってこんな面倒で苦しいことを趣味ともとても言えない。やはり相場師とは資本主義の呪われた部分なのだとつくづく思う。
 兜町で古の相場師の遊びの話を昔聞いた。新橋のお茶屋を借り切って、綺麗どころを50人ほど呼んだという。一番上等な着物を来てこいというリクエストをして庭の池の水を全部抜かせてそこに酒を張って、大きな錦鯉を100匹離して、逃げまどう鯉を芸者につかみ取りをさせる。捕まえた女の胸元に100円札の束を捻りこむという余興で酒を一晩飲んだという。酔狂という言葉がこれほど似合う男たちがいるだろうか。現在それをやれば4−5億の散財だというから相当大きな相場を張って勝った祝賀という洒落なのだろうが、そうした馬鹿な無意味さが相場には似合ってるなと話を聞いて思ったものだ。それは意味と無意味を考える僕の最初の契機となった。
相場は何一つ生まない。有る金の分捕り合いという単純な略奪のゼロサムゲームであるからこそ、理屈抜きに原始的な祭りが似合うということなのかもしれない。清酒が何樽も、錦鯉が100匹も、芸者の着物が50着も無意味に消尽される。馬鹿騒ぎという戦いの終わりの区切りのために行われるそれは、有る意味神事や宗教儀礼と同じ効果を持ってるのだろう。ポトラッチというアマゾン原住民の消尽の祭りがあるが、これと類似した行為なのかもしれない。人間は苦労して作り上げた事を、一気に破壊する行為自体を通じて宗教と政治を作り出していったと考えられている。普段はこんなことは考えないのだが、雪が降って山に閉じ込められると手も足も出ない。別に何が不足しているわけでもないし、必要ならタクシーを呼べば良いだけのことだが、その必要というものが無くなった暮らしが今なのだ。震災という他動的な事件が僕に転居のきっかけを作ったが、現在の慣れた暮らしをきっぱりと棄ててみることは有る意味新鮮な思考の冒険になるものだ。惰性を断ち切るということは現在を全否定することに近い。住む家や場所、一緒に暮らす女や家族、乗る車や着る服、食べるもの、そうした現在を断ち切るというのはとても身体と心が軽くなる。それぐらい人間は現在に無意識に縛られているということなのだろう。消尽とは高度資本主義の逃走線であるということをこの相場師たちは知っていたのだろうか。自分で作り出したものは自分の手で始末をする。生産と消尽がセットになって一連の行為は完結するはずだが、どうも基礎教育はそのような当たり前の事を教えていないように思われる。仕事というものは何か物やサービスを作り出すことだけではない。その作り出した物やサービスが消尽されないかぎり新たな需要は生まれない。日本人が20年のデフレに陥っているのが事実なのだとすれば、教育は消費を奨励してしかるべきだろう。反対の事をしている限り事態は解決しないだろう。「贅沢は素敵だ!」社会倫理の教科書の巻頭にそう書くべきだろう、仮に国民教育というものの必要性があるとすれば。

初雪の山

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今日は立春だそうだが、ダイヤランドは積雪した。午後から降り始めて現在はやんでいるが窓から見ると5センチぐらいテラスのデッキチェアに積もっている。午前中にマダムを熱海に送って、その足で図書館に寄ってまた本を借りた。少し変わった本で、クレアマリーと言う人の「おねえ言葉論」青土社である。日本語の新たな地平である「おねえ言葉」の総合的な研究論であるから、やわらかいのかと思ってたら、この人は東大大学院で博士号を取って、津田塾で助教授をやったのち、メルボルン大学で研究をしていらっしゃる女性である。なかなか楽しみだ。困ったことに今日もアクセスが激増して500近い。暴落すると増えるというジンクスが生きているから、アクセスが減らないと株価は上がらない。(笑)オーイ、誰も来るなよー!
昨日でなんとか月足を1300枚仕上げたら肩は凝るわ、眼はしょぼつくわで、本来なら一日なあーんもせんで風呂に入って寝ているところだが、マダムの送迎があるのでそうもいかない。それで帰宅して、場帳を書いて、夕飯を食べて7日分の折れ線を60本ほど書いたら11時になっていた。結論としては、大納会を目先天井として4週で崩れ、折れ線の新安値で8−11本のものが大半である。安値は6月、8月、11月などの安値付近である。日柄、値幅から見て、積み重なった信用買いが強制的に投げさせられた安値と思われるので月中にかけて一旦は戻りそうであるが、3ヶ月程度の底練りがあるかもしれないと感じている。アンワインドだから、どこかで買い戻しをかけるわけで、結構値幅で戻るのかどうか? 8604の野村を見ると5月の急落は6週弱で12本270円押して底打ちした。ここから10本130円ほどの半値戻りがあって戻り天井で半年の往来の後、今回は4週で11本150円の急落で止まるかな?というところである。まあ、投げが終われば自然に戻るだろうから売るほどの事でもないとポツンと下値をいくつか拾った以外は何もしていない。FRB議長の交代時期は必ずこういう事が起きるのは、当局の動きを市場が試しているのだろうと思われる。いつも通りの3月に1回ぐらいの調整だろうが、信用買い残が積み上がっていたから、またJRがたくさん止まるという事になるのだろう。毎度の事ながらイヤハヤと言うしかないなあ。これで灰汁抜けすると値動きが少し軽くなるかなと期待しているのだが、、。5月の高値からちょうど30週目180日ぐらい経過しているので、セオリー通りの2番底(という4番底ぐらい何度も押したが 笑)になるのかどうか?まあわからんが、強気なら買う以外に手はないのだから、考えてもしかたがない。場帳をかいて
自分の感じでやるしかないのはいつも通りである。上げの2年目というのは、得てしてこうした揺さぶりをかけるような動きになりやすい。前回も2003年は普通に上げたが、04年は中断の揉みで結構揺さぶりをかけられて1年ほど往来が続いていた。結局は
2005年8月から猛然と上に離れたという相場になったが、個別は様々な動きとなるはずだから、突っ込んだら拾うというスタンスで行くのが堅いと思われる。

ASH WEDNESDAY

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「これで資本主義の逃走線は確保された!」とまあめったに見ないテレビをチャートを更新しながらつけっぱなしにしていたらゴールデンボンバーのライブ映像に遭遇した。邦楽を聴く事もあまり無いから初めて見たバンドだが、これは凄いなあと思わず見とれてしまうほどのノリである。演奏は全部エアーだからボーカル以外はみんなフリである。演奏しないでダンスとパフォーマンスで観客を乗らせて踊らせる。全員総立ちのライブの熱狂がそこにはあった。これで日本は大丈夫であるとじじいは若者の感覚に激しく同意した。観客の服装は、あのキャリーパミュパミュのようなグロ可愛い今時のギャルが大半で、トリックスターのヴォーカル以外はステージ衣装は980円のスーパーの安物ばかり。金なんてどうでも良いが、彼らはとにかく真剣にオチョクルことに懸命である。トリックスターの誕生に大衆は熱狂する。権力と体制の正統な中心から外れて、周縁から中心をオチョクルパワーとはまさに資本主義の逃走線を確保し、ノマドロジーの逃走機械そのものだ。こうした流れが、マジでスクエアな価値観を笑い飛ばしてコケにする。ギーターが下手だから、そんなもん練習してたら30年かかるんで、無理!とエアーでいいじゃないかと実に柔軟な発想である。手段を目的化しないドライな若者のプラグマティズムがそこにはある。ステージと音楽は客を喜ばすためにあるのなら、そのための手段を選ばない。なんでも有りだからこそ、多分エアーが正しいという判断なのだろう。それはトリックスターとしてのプロの誇りだろうと思われる。
 「欲しいものが欲しい」という糸井のコピーが書かれてから一体どれぐらいの時間が流れたのだろう。その間、個人も企業も国も多くの時間と金を失って20年以上の時間が流れたが、本当に僕たちが失った物は希望という名の価値である。だが新しい日本人は静かに生まれていたということなのだろう。新しい日本の文法は最初は単純なビートとダンスのわっしょいのお祭り騒ぎである。それでもその後に続く遠く長い逃走線の先に効率や蓄積では産めない激しい欲動の蠢きを感じる。あのアンダーグラウンドの、あのノーマディックな、あの砂漠の風の匂いのような、そして見捨てられた土地の放射能と呪いの向こう側に、トリックスターの狂った笑いがある。かつて1世紀ほど以前にイギリス人、T.S.Eliotは次のような詩を書いた。彼はその詩でノーベル文学賞を取ったが資本主義の成熟と腐敗を既に予言していたのだ。この詩を僕が知ってから既に40年の年月が流れた。

Although I do not hope to turn again
Although I do not hope
Although I do not hope to turn

Wavering between the profit and the loss
In this brief transit where the dream cross
The dreamcrossed  twilight between birth and dying
(Bless me father)though I do not wish to wish these things
From the wide window towards the granite shore
The white sails still fly seaward,seaward flying
Unbroken wings

And the lost heart stiffens and rejoices
In the lost lilac and the lost sea voices
And the weak spirit quickens to rebel
For the bent golden-rod and the lost sea swell
Quickens to recover
The cry of quail and the whirling plover
 And the blind eye creates
The empty forms between the ivory gates
And smell renews the salt savor of the sandy earth

This is the time of tension between dying and birth
The place of solitude where three dreams cross
Between blue rocks
But when the voices shaken from the yew-tree drift away
Let the other yew be shaken and reply.
Blessed sister,holy mother,spirit of fountain,spirit of the garden,
Suffer us not to mock ourselves with falsehood
Teach us to care and not to care
Teach us to sit still
Even among these rocks,
Our peace in His will
And even among these rocks
Sister,mother
And spirit of the river,spirit of the sea,
Suffer me not to be separated

And let me cry come unto Thee.

                     ASH-WEDNESDAY,   1930      T.S.Eliot

金融資本主義の正体

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2月になった。昨夜から月足グラフを更新している。4000番台まで仕上げたのでなんとか4割終えたところで疲れたし飽きた。毎月、毎月還暦近くなって目も弱りつつあるのに自分でもご苦労なことだと思うが、習慣なのでしないと気持ちが悪いのである。その気持ちが悪いのがなるべく早く終わる為に書いているようなものだ。書く前にすでに場帳は締めているから短陰線の比率が多いというのは既にわかっている。線組も持ち合いのペナントとフラッグを形成中のものが低位株に増加しているというのも先月と恐らく同じである。まあ例年は1−5月と年の前半は連続的に陽線が続く(つまり上げ相場)というアノマリーになることが多いのだが、今年は大納会を目先天井としてコア銘柄はお辞儀を始めたもの(8830とか)が増えているというぐらいが特徴といえば特徴だが、それでも1月も高値を更新している薬品株のようなものも多いので一概に弱いとも言えない。低位株はむしろあれだけNYに引きずられて225が押した割には下げないなあという印象が強い。短陰線でも上値と下値が切り上げっているものが多いのはつまり陽線と同じ事なのだが、1000枚ぐらい書いた経験がないとすぐに見落とすだろうと思われる。というか線組の意味が理解できないのだ。それに陽線のものもかなりあるのだ。結局、数をこなさないと見えてこないものがあるという事である。同じグラフを見ているのに見えている景色が逆転することがあり得るのだが、わからん奴には永久のわからん世界だろうと思われる。それで質問をされても当方は困るので「ウダウダ言わんで数を書け,ボケ!」と言うんだがホントにたくさん書く奴は少ない。だから良い結果があまり出ないのではないかなと思うが、俺の知った事ではないのよね。
基本的にはヘッジファンド系は円ショートと株ロングの組み合わせがずっと積み上がっていたのだか、それを一部アンワインドすれば去年の5−6月と同じような下落になるはずで、あの時は3週ほどでコツンときた。(6.14だったかな?)目先2月のどこかで一旦はコツンとくるだろう。どれほど戻すかはわからないが、NYの長期の周期は5年上げて崩れるというパターンであるから、今年は崩れる年に当たるパターンだ。指数が2−3割は動くのが普通だから、テーパリングを材料に利食い売りが膨らんで大崩れがあるのかもしれないが、あったらあったでFRBも最後は動くだろう。株高による露骨な景気刺激策以外にめぼしい対策がないから、結局は強気相場は心配の壁をよじ登るという結果に多分なるんじゃないのかと僕は個人的に楽観している。
街の声はあまり景気が良いというような声が多くないようだ。まだ年末の賞与が良かっただけで、4月からの昇級がどうなるのかはっきりしないから、見込みでお金を使うような人が多分多くないせいだろう。4月から消費税や年金などが値上げになるから、それに対する防衛的な消費スタイルをしている人も多いのだろう。株を持っている人の比率がアメリカよりも格段に低いから、株高だけでは庶民は景気回復、所得増とピンと来ないというのが実情なのだろうか?NISAはロケットスタートだったらしい。600万口座というのがなんでロケットかよくわからない。労働力人口は6000万いるはずだからたったの1割でしかない。僕が個人で証券口座を作ったのは23歳の時だった。それまでは相場は親父の口座を借りて17歳からやっていた。この40年でインターネットの普及で随分敷居が低くなったはずだがそれでも1割は少ないなあと思う。相場の上がりが200万を超えたのがオイルショックで帝国石油を当てた大学時代だったが、これで相場は面白いと思ってそれからずっと浸かりっぱなしの生活だ。それ以来、やはりこれぐらいおもろい世界というのを他に経験することがなかったから、やはり嵌ると病気になるものなのだろう。是銀は死ぬ前日まで新日鉄の株価はどうかとベッドで聞いていたというから、三つ子の魂100までだろう。別に金が欲しいというのではない。死にそうな男が金などあっても意味は無い。使いようがないのだ。金を使うにも元気がいるのだが、死にそうなのだから元気なはずはない。それでも気になってしかたがないということで、女よりずっと長持ちする欲望の対象なのであろう。
 我々は資本主義社会に生まれた。だから他に選択の余地がない。いやでもこの世界で生きて行くしかない。好きも嫌いもないが、どうせなら好きになるほうが楽しいに決まってる。だから嫌いなフリなんかしないほうが気持ちが良い。(キューバや北朝鮮に亡命すれば別だが、誰もしないだろう)その割にはほとんど誰も資本主義について本気で真面目に考えている人が周囲にはいないのは何故だろう。この主義の世界の仕組や構造や権力の本質について、学校でも教えないし、無論会社でも教えない。多分、教えると都合が悪いからだろうと僕は思う。それで誰が教えるてくるかなと考えたらやはりヨーロッパ人がよく考えている。フランス人とドイツ人(ユダヤ人)の洞察が鋭い。ニーチェ、バタイユ、クロソウスキー、ドルーズ、ガタリ当たりが構造分析としての本質をついていると思う。資本主義はキリスト経と相似形である。唯一神であるところが日本人にはなじまない。だから教えないのかもしれない。だってホントの事を知ると角がたつことばかりであるから。曖昧なことが好きな国民性だからだろう。ドルーズ、ガタリの共著「アンチ オイディプス資本主義と分裂症」をまず読むのは実に脱構築上手っ取り早い手段だ。産業資本は統合化する、そして金融資本は差異化する。インテグレートに対するディファレンシエイト、積分と微分、この差が資本主義の性質的な劇的変化の本質だろう。産業資本をドライブする欲望は需要だが、金融資本をドライブする欲望は幻想である。金融資本には器官なき身体が必要となる。それによって逃走線を確保する。とにかく勝って逃げて休んでまた勝って逃げる。金融資本の正体はそれだ。何ひとつ作らない、ただひたすら消尽するのみである。だからトンズラするのの上手下手が全てを決める。つまり現代のノマドロジーの世界なのである。そいうえば相場師は温泉好きが多いよな。是銀も山種も熱海だった。年のせいも無論あるんだろうが、中心から離れている事が決定的に重要な要素だと思う。ニコラスバーバスもジェシーリバモアも結局は中心を離れて電信のみで相場を張る時に大きく勝っている。渦に巻き込まれない距離感が命綱であったということ、つまり逃走線の確保が一番の肝だったということだ。技術的なことも無論重要だが、それ以上にこの点を強調する人はほとんどいないと思う。
ところで女って資本主義の本質的な逃走線だと思わない?
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