それでは、世界が意味を持つべきなのだろうか。それこそ、真の問題だ。世界が仮に意味を持たないと、仮に認めることができるとすれば、われわれは形態や外観や衝動のゲームを、それらの最終的な行く末を気づかわずに、楽しむことができるだろう。世界が意味を持つという要請が仮に存在しないとすれば、貨幣のうちに世界の一般的等価物を見いだす必要は無いだろう。
シオランが言ったように、人生が意味を持つと信じた時点で、はじめてわれわれは落伍者に過ぎなくなるーーーそして、それ以来、人生に意味などありはしない以上、われわれはみな落伍者となる。それにあの物神化された貨幣が純粋かつ単純な不在を表しているからこそ、貨幣は投機的で指数関数的な存在となり、それ自体がクラッシュと荒っぽい混乱を運命づけられているのだ。世界全体が貨幣を通じて普遍化される傾向にブレーキをかけたいなら、まず意味の要請を除去しなければならない。世界がますます意味を持たなくなるので、この要請はますます人々を失望させるものとなる(世界はけっして意味を持ったことは無いし、他の何ものかと交換可能だったこともないが、今日では、世界に交換用の等価物をみつけることがますます困難になっている。われわれに見つけられる唯一のものは、ヴァーチャルな等価物にすぎない)。
こうして、われわれは意味の想像力と真実の要請との間で分裂状態にある。ますますありそうになっている仮説は、世界は最終的真実を持たず、世界そのものが決定的な幻想なのだという仮説である。意味と無意味の間で、絶対的な選択を迫られるのだろうか。だが、率直なところ、われわれは選択などしたくない。意味の不在は、多分耐えられないものだが、世界が決定的な意味にとらえられるのを見とどけることも、同じように耐えられないはずだ。貨幣の奇跡が介入するのは、まさにこの点である。貨幣は、われわれが意味と無意味の間で選択をせずに、普遍的妥協を見いだすことを可能にしてくれる。貨幣は交換のための普遍的合目的性としての役割を演じる。フェティッシュが代理の性的対象の役割を果たすように。
この貨幣は、したがって計算可能な等価性を持たないし、何かの普遍的等価物でもないーーーーむしろ、無の普遍的流通の等価物なのかもしれない。それはフェティッシュとなる対象物のように、肉体をもたない記号なのだ。金銭としての貨幣は生きた貨幣の対極にある。生きた貨幣のほうは純粋な記号、不可能な交換の、かたちをかえた記号である。金銭のほうは、不可能な交換の、欠如による記号、フェティッシュ化された記号にすぎない。この種の記号は絶対的な準拠枠となって、もはや誰にも釈明する必要がないし、買い戻されることもない。この点で、それは債務に似ている。事実、われわれに無限の債務をもたらすのだ。
生きた貨幣ーー幻想の特異性 ボードリヤール 「不可能な交換」より転載
フランスの大統領のゴシップは楽しい。とにかくあまり仕事をしないで受けを狙った演説だけして、あとは大抵美女の尻を追いかけ回す。そこには倫理も正義も外聞もない分だけ、フランス人のスケベな正直さが見え隠れしていると感じるのはきっと僕だけではないだろう。「いい年こいてよくやるぜ」というのは負け犬の遠吠えで、出来るものなら自分がやってみれば良い。小泉が篠原涼子を囲ったとか阿部チャンがキャリーパミュパミュを買ったとかそういう噂で文芸春秋が大見出しを打つようになれば、靖国に行ったぐらいで多分近隣諸国から侮られるようなことにはなるまいにと思うのだが。それには世間体という幻想を犬に食わせる必要がある。
それにしても女性は元気がよい。というか元気のよい日本人はすべて女性なのだから、さっさと誰でも良いから女性を首相と天皇にしてみれば良いと思うのだ。僕は女だらけの環境で育ったから、彼女たちの残酷さは骨身にしみて知っているから、グローバリズムを推進するにしてもしないにしても女性のほうが多分徹底して戦うだろうと思われる。サッカーひとつとっても女子は世界一なのに男子はベスト8にも入れない。闘争心のレベルの差は歴然としている。なんでこんなに女が上手くいって、男はダメなのか?と自問すれば、それは目先の小さな幸福を徹底して彼女たちが追求するからではないか?とフと思う。「好きか嫌いか」という選択にそれは冷酷に現れる。嫌いなことはしないし、好きなことを徹底する。選択を留保するという逃げの無い世界に彼女たちは共通して生きている。女性誌を見ると、ファッションと食べ物とSEXと美容と旅行に集中して現れる。それが好きなら他のことなど考えもしない。金がかかることばかりなのだ。その実現をサポートする男が彼女たちの気に入りのペットなのだ。つまり彼女たちこそが生きた貨幣なのである。貨幣は交換と流通を通じて集中と増殖を繰り返す。そしていつかやがて大きな政治性を持つようになる。
建てると落とすがセットの行為であるように、食べると寝るもセットの行為だと言う持論だから、何か美味しいものを食べるという基本的な小さな幸福を女性並みに大事にするというのは発想や行動を変える契機となる。知らないことは教えてもらうのが早いから、よくレストラン本とか料理家のレシピ集を買う。最近使うのが静岡新聞社のムック本で静岡県の贅沢レストランで打率6割と言った感じで重宝した。白崎裕子の「にっぽんの麺と太陽のごはん」というオーガニックレシピもなかなか宜しい。地粉で打ったうどんとか玄米の炊き方とか手の感触が鋭くないと食べものにならないから、真剣にやらないと美味しく出来ないのだ。温度とか水加減とか粘りとか時間とか手際とかとにかく料理は手がかかる。感覚とか感触とか、面倒なことばかりなのだが、少しでも繰り返して上達が少しは自覚できるレベルにまでたどり着くとこれが嵌るということになる。そうなれば僕は純粋な記号として交換が不可能な流通過程に入り込むことができるかもしれない。つまり計算不能な異物としての物神性を持つことが可能となるかもしれない。仮にそうなれば代替としての貨幣の意味は失われるだろう。身体が直接の貨幣性を持つことによって、僕は生きた貨幣として人類という、あるいは経済という絶対的な準拠枠をスルーして不可能性の記号として逃走する生き延びた猫になるのかな?その時、猫が言葉を話せたならばきっと質するだろう。
Teach us to care or not to care,
Teach us to sit still.
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