グローバリスムへの批判が姦しい。金融帝国主義だとか雇用喪失の要因になるとか日本文化がダメになるとかありとあらゆる言説が乱れ飛ぶ。TPPに関しても国内農業が壊滅的な打撃を受けるとか保健分野が破壊されるとか脅威論が根強いようだ。当該産業に従事している人からすれば仕事が無くなる可能性があるのだから抵抗するのは当然だと思うが、それだからと言って鎖国をして保護主義で日本だけでなんとかするなどというのは非現実的である。エネルギーもないのにどうやって国内だけで生きて行くのか。原油が無ければ農家だってハウスの暖房が出来ないし、農作業の軽トラのガソリンはどうするのだろう?自由貿易を一方的に批判するのは容易いが、じゃあ保護主義で自立して成り立つビジョンがあるのなら堂々と示したら良いのにと思う。何かを輸出して外貨を稼がないとそもそも資源は継続的に輸入できない。売るだけ売って買うのは嫌だは子供の我がままだろうと思うが、賛成派はそれをすることで利益が増えるからだし、反対派はそれをすることで損失になる人たちのことであるから、結局は数の問題で民主制が機能すると仮定すれば多数決に落ち着くはずだが、そうは簡単にいかないところが民主制のややこしい部分なのだろう。
これだけ格差拡大とか教育の荒廃とか福祉の貧困とかが社会問題化しているのだから、選挙でもっとリベラルな勢力(たとえば民主党とか)が圧勝した政治が続いてもよさそうなものなのにそうなっていないのは何故だろう。やらしてみたらお粗末だったという点はあるのだろうが、かといって自民党が優れているというほどの事でもないのになと思う。どっちがやってもダメなら、まだ自民の方がマシという消去法なのかもしれない。そもそも政治の限界が明らかとなって、政府に何か期待してもそのようにはならないというのなら、間接民主制自体が機能不全であるという機能論の問題になるのだろう。政治に過剰な期待をしても無駄であるという無関心な層が急速に拡大して「棄権する」という態度表明をするようになってから久しい。「アパシー(無関心=無常と訳したいね僕は)とは究極の日本文化であるから、若い日本人の感性は誠実に政治に反省されている。民主制は確実に機能している。」という皮肉な見方もアリだろうと能天気な僕などはオチャラケている。参加しようがしまいがそれも自由だという声もあっていいんじゃないか?醒めてるけど熱くなってもエネルギーの無駄な気がすればアホらしいことに時間を取られたくないのは合理的な判断だろう?「選挙は万が一ドクター中松が勝ちそうなら行くけど、舛添でも細川でも小笠原でも多分おもしろい事になりそうにないないなら無駄である。」というぐらいふざけた奴がいてもいいわけだ。もっとも都民ではないから僕には選挙権はないから冷やかしでしかないけれど。
あれだけたくさん昔から自動車や電気製品を怒濤のように輸出してきた国が、今度は米や牛乳やチーズが輸入されたからといって文句を言えるのか?どこか頭がおかしいんじゃないかと思う。オーストラリアの牛乳やチーズが不味くて日本人の口に合わなければいくら安くても普及はしないだろう。同じような品質や味覚だとすれば安い方が多分売れるだろう。それはどんな商品だって同じ事だ。日本車がアメリカでしたことをオーストラリが日本でするということが同等の条件で行われるというのがフェアという事だろう。どこかに一方的な有利不利な作為的条件をつけることはしないというのが自由貿易論の建前上の基本精神だろうと思うし比較優位論の通底する目的だ。それで資源の効率的配分が国際的に再配置されるというシカゴ学派の考えが基本だろう。いくつかの例外規定(国防に関する産業とか)はあるものの、基本的な産業に関してそうしましょうねという取り決めに別段、思想的瑕疵があるとも思えない。むしろ資源の無い日本のような国には、そのほうが有利だろう。物(原材料)がないなら買うしか手が無い。買うなら安い良い品質が良いにきまってら。今まではそれを加工して高く売っていた。が日本より加工が上手い(安くて上手い)国が出てきたからそれを買ったほうが安くて上手いというだけのことだ。つまり日本の国産商品の競争力がなくなった、魅力が無くなったことが問題の本質だろう。ソニーの凋落を見ればよくわかる。いつの間にか僕の家にはソニー製品がゼロになった。テレビは古いパナソニック、ステレオはヤマハとB&OとBOSE,パソコンはアップル3台、携帯も2台アップル、冷蔵庫はパナソニック。大半はマダムが選んだ。少し前はパソコンと携帯はソニーだった。この間日本の製造業は上昇した原材料コストを非正規の労働費用で控除したということである。安い賃金が嫌なら非正規の人は働かなければ良い。誰も頼んで働いてくれとは多分言ってはいない。安い賃金でしか働く能力が無いのなら、特別に日本人だけが高い賃金を取れる理由は無いだろう。等価交換とはそういう事だろう。自分がいくら値打ちがあると主張しても、相手はこの仕事はこの値段というのが交換だ。余計なものはいらないということなのだ。これは不合理な議論だろうか?同一賃金同一労働が良いのなら正社員の賃金を非正規同様に下げるのが筋だろう。するともっと平等で貧しい国に成るだろうが、、(笑)労働価値とは所詮その程度の話であると思う。そもそもそんなに労働って凄い物だろうか?多くの人は働かなくて暮らせるならそのほうがいいかなと思っているのじゃないのかな?少なくても働いている時の僕はそんな怠け者だったな。貰ったことはないけれど、そして貰えるはずもないけれど、生活保護で10万で暮らせといわれれば、別にそれでもいいけどな。金などなくても幸せな暮らしってあるだろうし、想像力の問題だと思うんだけどなあ。人と比べるから卑しくなるのだ。他人に迷惑をかけないかぎりは好きに生きられるのが一番幸福だと思うけどなあ。
少し想像力を働かせてみよう。僕は5キロ2500円の国産米を買っている。生協の米だ。大抵新潟のコシヒカリというのが多いが特別産地には拘らない。以前東京にいた時は魚沼産の天日乾燥というのを5キロ25000円で伊勢丹で買っていたが、静岡になってからは買いたくても買えない。わざわざ米を買うのに東名飛ばすほどのグルメではないしそれほどの差もないよ。米の味は炊飯で決まるから伊賀焼きの土鍋でたくと何でも美味しいのだ。でもあれば魚沼を多分買うだろう。仮に米が完全自由化したとする。魚沼の天日乾燥が人気で急騰する。キロ2.5万と5倍になった。5キロで12.5万の米は庶民には無理だろう。1合が200グラムだと仮定して100グラム食べるとすると1食2500円の原価になるから、外食でも料亭以外は使用できないだろう。生協の米も同様に値上がりするとする。ブランドでないから2倍になると仮定する。2.5キロ2500円だと100グラム100円だ。サトウのご飯が現在1パック100円ぐらいだから、原価的には同じである。庶民でも十分食える値段だと思う。これで農家の販売価格は上がるから儲かるはずだ。同時にカリフォルニア米とか中国米が自由化されて関税がゼロで入ると日本の5分の一とか8分の一だとすれば5キロ500円だ。1食だと10円だ。貧乏人の大半は多分助かると思う。日本米ほど美味しくはないがなんとか食べられるだろう。なんなら少し国産米と混ぜて食えばいいのだから。低所得者対策としてはフードチケットと同様な効果が関税を下げるだけで実現する。貧乏な人、仕事が無い人はコストが下がって楽になる。農家の3割が仮に潰れたとしても、それによって失うものよりも、低所得者に生まれる新たなコストダウンによる消費拡大余地のほうが遥かに大きいだろう。どうしても上手い米が食いたいなら、がんがん人を蹴落として儲けて料亭に行く以外に手は無いし、そんなかったるいのよりほどほどで安い楽なのがよければ輸入米を食えば良い。好きなほうを選ぶのが多様性の存在である。で、実際にそうなったら僕はどんな米を食うのだろうか?多分今とそんなに変わらないだろう。生協の宅配の米を買うだろう。たまには料亭で魚沼を食うだろうし、タイ料理屋、インド料理屋にいけば安い米を食うだろう。さらにはカリフォルニア米を買って試しに食うかもしれない。それが上手ければそれにするだろうし、食ってみないとわからない。日本人は器用だから、安い米の調理法を見つけて上手い食い方や新商品を作る可能性が高いと思う。(例えば冷凍チャーハンとか)
そもそも自由化しようがしまいが、貧乏人は魚沼の天日米を現在でも多分食ってはいないのだから、自分と関係ないものが上がろうが下がろうが関係ないと思う。金持ちは幾らでも買うだろう。それを平均とか標準とかありもしない幻想でひとくくりにしようとするから変なことになるんじゃないか?魚沼の米を給食で出すような小学校は、多分年間の授業料が300万ぐらいは最低するようになるのだろう。それが庶民の手に届かないと嘆いても、教育の自由というのが仮にあるとすればデラックスな教育機関がもっと私立でたくさん出来ても不思議は無い。親の金が物を言う嫌な世界だが、別に世界では珍しいことではない。なんでもかんでも同じにすることでは問題は解決しないのはロシアの失敗を僕たちは見て来たのだ。だから共産主義は理想で勝っても現実に負けた。つまり多様な人間の現実的な生活は理想では処理しきれない複雑なファクターによって成立していたという当たり前の結果に破れただけのことであろう。
そもそも農家の就業年齢が65歳というのだから何もしなくてもあと10年ほどで誰も農家は出来なくなる。現役が死ねば農地は耕作放棄地に自然となるしかない。そうすれば自然と供給は減って国産米の価格は上がるかもしれない。利益が出るなら法人化参入を許せば企業がどんどん参入するのだろう。それのどこが悪いのだろうか?農業が国策上重要なのは言うまでもない事だ。ならなんで企業化して強くしないんだ?アホの論議としか思えない。これも既存の権力構造(農協)のせいだろう。経済は金で物事を処理する世界なのだから、それに従う以外に原則論はあり得ないだろうと思う。米だけが、あるいは農業だけが、あるいは国産産業だけが、と例外を言えば切りがない。結局日本だけがということになって孤立する。それが本来の国益になるんだろうか?僕はナショナリストではないけれど、国策を本気で彼らは考えているのだろうか?何かと何かを交換しないかぎり日本は立ち行かないのだから。
結局、日本人の多くは「変化」そのものが感情的にきっと何でも嫌いなんだろうという結論にいつもなる。今のぬるま湯に永久に浸かっていたいという願望がとても強い国民感情なんだろう。でも時間は日本には無関係に過ぎて行く。日本人は昔から四季の移り変わりを楽しむ風流な感性を持っていたはずなのになんで今起きている変化を積極的に取り入れて楽しんでみようとはしないのか。結局、変化に対応できない種は絶滅したのは恐竜を見てもわかるだろうに。生き残る種は必ずしも強い種ではない、変化に対応できた種なのだ。日本人は変化を祝祭の供儀に変える技をいつの間にか忘れてしまったのだろうか?僕の好きな一休の祝祭の歌をひとつ紹介しよう。
「正月は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」
一休さんは1420年頃の京都の人でしょ。リベラルなんてもんじゃないぐらい自由人で、僧侶なのに女は犯す、男ともやる、肉は食べると好き放題やってる遊び人なんだね。だからオシャレにさらっとこんな歌になっちゃうんだろうと思う。これ500年後にエリオットがASH WEDNESDAYで歌ったのと同じでしょ?日本人でもこんなにリベラルで凄い感性と行動の人がいたんだなあと誇りに思いますね僕は。
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