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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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Little broken heatrs

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グローバリスムへの批判が姦しい。金融帝国主義だとか雇用喪失の要因になるとか日本文化がダメになるとかありとあらゆる言説が乱れ飛ぶ。TPPに関しても国内農業が壊滅的な打撃を受けるとか保健分野が破壊されるとか脅威論が根強いようだ。当該産業に従事している人からすれば仕事が無くなる可能性があるのだから抵抗するのは当然だと思うが、それだからと言って鎖国をして保護主義で日本だけでなんとかするなどというのは非現実的である。エネルギーもないのにどうやって国内だけで生きて行くのか。原油が無ければ農家だってハウスの暖房が出来ないし、農作業の軽トラのガソリンはどうするのだろう?自由貿易を一方的に批判するのは容易いが、じゃあ保護主義で自立して成り立つビジョンがあるのなら堂々と示したら良いのにと思う。何かを輸出して外貨を稼がないとそもそも資源は継続的に輸入できない。売るだけ売って買うのは嫌だは子供の我がままだろうと思うが、賛成派はそれをすることで利益が増えるからだし、反対派はそれをすることで損失になる人たちのことであるから、結局は数の問題で民主制が機能すると仮定すれば多数決に落ち着くはずだが、そうは簡単にいかないところが民主制のややこしい部分なのだろう。 
 これだけ格差拡大とか教育の荒廃とか福祉の貧困とかが社会問題化しているのだから、選挙でもっとリベラルな勢力(たとえば民主党とか)が圧勝した政治が続いてもよさそうなものなのにそうなっていないのは何故だろう。やらしてみたらお粗末だったという点はあるのだろうが、かといって自民党が優れているというほどの事でもないのになと思う。どっちがやってもダメなら、まだ自民の方がマシという消去法なのかもしれない。そもそも政治の限界が明らかとなって、政府に何か期待してもそのようにはならないというのなら、間接民主制自体が機能不全であるという機能論の問題になるのだろう。政治に過剰な期待をしても無駄であるという無関心な層が急速に拡大して「棄権する」という態度表明をするようになってから久しい。「アパシー(無関心=無常と訳したいね僕は)とは究極の日本文化であるから、若い日本人の感性は誠実に政治に反省されている。民主制は確実に機能している。」という皮肉な見方もアリだろうと能天気な僕などはオチャラケている。参加しようがしまいがそれも自由だという声もあっていいんじゃないか?醒めてるけど熱くなってもエネルギーの無駄な気がすればアホらしいことに時間を取られたくないのは合理的な判断だろう?「選挙は万が一ドクター中松が勝ちそうなら行くけど、舛添でも細川でも小笠原でも多分おもしろい事になりそうにないないなら無駄である。」というぐらいふざけた奴がいてもいいわけだ。もっとも都民ではないから僕には選挙権はないから冷やかしでしかないけれど。
 あれだけたくさん昔から自動車や電気製品を怒濤のように輸出してきた国が、今度は米や牛乳やチーズが輸入されたからといって文句を言えるのか?どこか頭がおかしいんじゃないかと思う。オーストラリアの牛乳やチーズが不味くて日本人の口に合わなければいくら安くても普及はしないだろう。同じような品質や味覚だとすれば安い方が多分売れるだろう。それはどんな商品だって同じ事だ。日本車がアメリカでしたことをオーストラリが日本でするということが同等の条件で行われるというのがフェアという事だろう。どこかに一方的な有利不利な作為的条件をつけることはしないというのが自由貿易論の建前上の基本精神だろうと思うし比較優位論の通底する目的だ。それで資源の効率的配分が国際的に再配置されるというシカゴ学派の考えが基本だろう。いくつかの例外規定(国防に関する産業とか)はあるものの、基本的な産業に関してそうしましょうねという取り決めに別段、思想的瑕疵があるとも思えない。むしろ資源の無い日本のような国には、そのほうが有利だろう。物(原材料)がないなら買うしか手が無い。買うなら安い良い品質が良いにきまってら。今まではそれを加工して高く売っていた。が日本より加工が上手い(安くて上手い)国が出てきたからそれを買ったほうが安くて上手いというだけのことだ。つまり日本の国産商品の競争力がなくなった、魅力が無くなったことが問題の本質だろう。ソニーの凋落を見ればよくわかる。いつの間にか僕の家にはソニー製品がゼロになった。テレビは古いパナソニック、ステレオはヤマハとB&OとBOSE,パソコンはアップル3台、携帯も2台アップル、冷蔵庫はパナソニック。大半はマダムが選んだ。少し前はパソコンと携帯はソニーだった。この間日本の製造業は上昇した原材料コストを非正規の労働費用で控除したということである。安い賃金が嫌なら非正規の人は働かなければ良い。誰も頼んで働いてくれとは多分言ってはいない。安い賃金でしか働く能力が無いのなら、特別に日本人だけが高い賃金を取れる理由は無いだろう。等価交換とはそういう事だろう。自分がいくら値打ちがあると主張しても、相手はこの仕事はこの値段というのが交換だ。余計なものはいらないということなのだ。これは不合理な議論だろうか?同一賃金同一労働が良いのなら正社員の賃金を非正規同様に下げるのが筋だろう。するともっと平等で貧しい国に成るだろうが、、(笑)労働価値とは所詮その程度の話であると思う。そもそもそんなに労働って凄い物だろうか?多くの人は働かなくて暮らせるならそのほうがいいかなと思っているのじゃないのかな?少なくても働いている時の僕はそんな怠け者だったな。貰ったことはないけれど、そして貰えるはずもないけれど、生活保護で10万で暮らせといわれれば、別にそれでもいいけどな。金などなくても幸せな暮らしってあるだろうし、想像力の問題だと思うんだけどなあ。人と比べるから卑しくなるのだ。他人に迷惑をかけないかぎりは好きに生きられるのが一番幸福だと思うけどなあ。

 少し想像力を働かせてみよう。僕は5キロ2500円の国産米を買っている。生協の米だ。大抵新潟のコシヒカリというのが多いが特別産地には拘らない。以前東京にいた時は魚沼産の天日乾燥というのを5キロ25000円で伊勢丹で買っていたが、静岡になってからは買いたくても買えない。わざわざ米を買うのに東名飛ばすほどのグルメではないしそれほどの差もないよ。米の味は炊飯で決まるから伊賀焼きの土鍋でたくと何でも美味しいのだ。でもあれば魚沼を多分買うだろう。仮に米が完全自由化したとする。魚沼の天日乾燥が人気で急騰する。キロ2.5万と5倍になった。5キロで12.5万の米は庶民には無理だろう。1合が200グラムだと仮定して100グラム食べるとすると1食2500円の原価になるから、外食でも料亭以外は使用できないだろう。生協の米も同様に値上がりするとする。ブランドでないから2倍になると仮定する。2.5キロ2500円だと100グラム100円だ。サトウのご飯が現在1パック100円ぐらいだから、原価的には同じである。庶民でも十分食える値段だと思う。これで農家の販売価格は上がるから儲かるはずだ。同時にカリフォルニア米とか中国米が自由化されて関税がゼロで入ると日本の5分の一とか8分の一だとすれば5キロ500円だ。1食だと10円だ。貧乏人の大半は多分助かると思う。日本米ほど美味しくはないがなんとか食べられるだろう。なんなら少し国産米と混ぜて食えばいいのだから。低所得者対策としてはフードチケットと同様な効果が関税を下げるだけで実現する。貧乏な人、仕事が無い人はコストが下がって楽になる。農家の3割が仮に潰れたとしても、それによって失うものよりも、低所得者に生まれる新たなコストダウンによる消費拡大余地のほうが遥かに大きいだろう。どうしても上手い米が食いたいなら、がんがん人を蹴落として儲けて料亭に行く以外に手は無いし、そんなかったるいのよりほどほどで安い楽なのがよければ輸入米を食えば良い。好きなほうを選ぶのが多様性の存在である。で、実際にそうなったら僕はどんな米を食うのだろうか?多分今とそんなに変わらないだろう。生協の宅配の米を買うだろう。たまには料亭で魚沼を食うだろうし、タイ料理屋、インド料理屋にいけば安い米を食うだろう。さらにはカリフォルニア米を買って試しに食うかもしれない。それが上手ければそれにするだろうし、食ってみないとわからない。日本人は器用だから、安い米の調理法を見つけて上手い食い方や新商品を作る可能性が高いと思う。(例えば冷凍チャーハンとか)
そもそも自由化しようがしまいが、貧乏人は魚沼の天日米を現在でも多分食ってはいないのだから、自分と関係ないものが上がろうが下がろうが関係ないと思う。金持ちは幾らでも買うだろう。それを平均とか標準とかありもしない幻想でひとくくりにしようとするから変なことになるんじゃないか?魚沼の米を給食で出すような小学校は、多分年間の授業料が300万ぐらいは最低するようになるのだろう。それが庶民の手に届かないと嘆いても、教育の自由というのが仮にあるとすればデラックスな教育機関がもっと私立でたくさん出来ても不思議は無い。親の金が物を言う嫌な世界だが、別に世界では珍しいことではない。なんでもかんでも同じにすることでは問題は解決しないのはロシアの失敗を僕たちは見て来たのだ。だから共産主義は理想で勝っても現実に負けた。つまり多様な人間の現実的な生活は理想では処理しきれない複雑なファクターによって成立していたという当たり前の結果に破れただけのことであろう。
そもそも農家の就業年齢が65歳というのだから何もしなくてもあと10年ほどで誰も農家は出来なくなる。現役が死ねば農地は耕作放棄地に自然となるしかない。そうすれば自然と供給は減って国産米の価格は上がるかもしれない。利益が出るなら法人化参入を許せば企業がどんどん参入するのだろう。それのどこが悪いのだろうか?農業が国策上重要なのは言うまでもない事だ。ならなんで企業化して強くしないんだ?アホの論議としか思えない。これも既存の権力構造(農協)のせいだろう。経済は金で物事を処理する世界なのだから、それに従う以外に原則論はあり得ないだろうと思う。米だけが、あるいは農業だけが、あるいは国産産業だけが、と例外を言えば切りがない。結局日本だけがということになって孤立する。それが本来の国益になるんだろうか?僕はナショナリストではないけれど、国策を本気で彼らは考えているのだろうか?何かと何かを交換しないかぎり日本は立ち行かないのだから。

 結局、日本人の多くは「変化」そのものが感情的にきっと何でも嫌いなんだろうという結論にいつもなる。今のぬるま湯に永久に浸かっていたいという願望がとても強い国民感情なんだろう。でも時間は日本には無関係に過ぎて行く。日本人は昔から四季の移り変わりを楽しむ風流な感性を持っていたはずなのになんで今起きている変化を積極的に取り入れて楽しんでみようとはしないのか。結局、変化に対応できない種は絶滅したのは恐竜を見てもわかるだろうに。生き残る種は必ずしも強い種ではない、変化に対応できた種なのだ。日本人は変化を祝祭の供儀に変える技をいつの間にか忘れてしまったのだろうか?僕の好きな一休の祝祭の歌をひとつ紹介しよう。
  「正月は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」

一休さんは1420年頃の京都の人でしょ。リベラルなんてもんじゃないぐらい自由人で、僧侶なのに女は犯す、男ともやる、肉は食べると好き放題やってる遊び人なんだね。だからオシャレにさらっとこんな歌になっちゃうんだろうと思う。これ500年後にエリオットがASH WEDNESDAYで歌ったのと同じでしょ?日本人でもこんなにリベラルで凄い感性と行動の人がいたんだなあと誇りに思いますね僕は。

ダンテさんへ

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猫次郎様は20歳より前に株の経験があるところをみて貧乏人から見て裕福な家だったと推測しますが
自分の餌のとり方、学など、どのように教わったのでしょうか?

ブログの文を見てとても教養のある方ど思っています。

私は23歳の所得が200万以下の非正規です

学校や親からも会社員になることでしか餌のとり方を教えて貰えずそれしか知りません 「就職」「正社員」を毎日のように話し洗脳されてるみたいに育ったので「社長」という時点で私の理解を超えています。

上記のような質問を戴いた。この板がなんか人生相談みたいになってきたのでちょっと困惑している。たしかにwebという手段は現実的には接点のない人たちと容易に出会えるという利点がある反面、想像ができない境遇とか世界というものの隣にいるという現実がはっきりと理解できて有る意味リアリティーを持って現実を振り返り自分と時代を反省するということが出来る。ダンテさんの指摘するように、現在の社会と家族の有り様というのは主に貴方がた若者の責任というよりは、僕や僕の親たちの世代の責任という部分が多いと自覚もしている。僕は教育者ではないから、上手に若者に大事な価値を伝えるのが出来るのかと言うと?である。だが同世代の教育者として、内田樹さんの著作は読んでみると学びについて実に参考になると思われる。4-5冊読んでみてください。知とは何か、教える教わるとは何かは彼は大学教授だったから切実に若者の問題点を把握しているし、かなり具体的な知へのアプローチを説いている。
他人様のご家庭のことは分からないが、自分のケースについて経験的に書く事にしよう。何かのきっかけかヒントになると良いが。
 僕は小さな書店の一人息子として生まれた。豊かというほどではないものの、ひもじい思いというものは一度もしてない。跡取り息子という事で夕飯のおかずが姉や妹より一品多いような家だったと思う。普通に高校に行き、明治大学商学部に行き、麻雀ばかりしてちっとも勉強しない学生だった。麻雀はなかなか強くてクラスで誰もしてくれる相手が3ヶ月でいなくなった。勝ちすぎれば小さな世界では客がいなくなるという現実をこのとき初めて知った。それ以来 小博打はダメだと思った。本気でやるならもっと大きな博打である。ある時、女に惚れた。実に美人だったが、付き合って半年ほどであっさり振られた。これはこれまでの人生で最大のショックだった。「なんで俺は振られたんだろう?」そう真面目に考えてみると、自分は女にとって、いかなる価値があるのだろう?という疑問にぶち当たった。18歳の時だったと思う。大学生というだけで、金もないし、遊んでばかりで何も出来ない。車の免許も無いし、無論車も持っていない。自分では世間ではまあ悪くないマシな大学生だと思っていても社会的に使い物にならない存在であることを女に振られるということで突きつけられたわけである。これでは確かにだめだなと思って、ナニをしたか。貫一お宮ではないが、「金が必要なのだ、男には」と何故か思ったのだ。何の本だったかもう覚えていないが、「一人前の男にとって、金が無いという情けない状態は、首がないのと同じである。」という辛辣な言葉に出会って、そうか男が社会で一人前に扱って貰えるのにはまず有る程度の金が必要なのかと初めて考えたぐらいウブだったということだ。とにかく一人前になるには1000万円ぐらいあると一応合格かな?と根拠無く考えたのだ。(なぜそういう数字かは覚えていない。たぶんゴロがよかったからだろう。当時の新入社員の月給100ヶ月分ぐらいの金だった)それで猛然とアルバイトを始めた。家庭教師を3軒掛け持ちし、昼は飯場でマンションのユニットバスの組み立て助手というのをやった。これが実にきつい仕事で1日12000円だったが背中と足の筋肉がすぐにつるのだ。室内作業だから雨の日も仕事になるが8ヶ月やって230万ぐらいになった。無申告だから(もう時効だろ)家庭教師は月に8万円ほどだった。なんだかんだで1年しないうちに300万ぐらいの預金が銀行に出来た。それで親父の口座で帝国石油、リズム時計、日本軽金属などを買った。帝石は128円だったと思う。石油ショックで380円で売った。4000株で100万ほど取れた。他の銘柄も少し儲かったと思うが細かい事は忘れた。これで株の味を知った。とにかく株というものは勉強してみる値打ちがあると思って、いろいろ株の本を読んだ。それが僕と相場の始まりだ。働き一両考え5両というやつだね。時間は本来(他人から)買うもので売るものじゃないというのも知った。リーマンはセールで売ってるから多分貧乏なんだろうと思った。
 ファッッショと英語に興味があったので、本屋を継がずにリーマンになった。ある小さな60名ぐらいのアパレルに入った。初任給は122000円だった。一日14時間(8-23時)働いた。業界のことを覚えるのに3年ぐらいかかった。セールスでトップとなって2年目の賞与が夏に40万冬に100万出た。まあ若造には悪くないギャラだ。だがそれで営業から企画に昇進して、3年目で先輩が実質的に10名ほど部下になると、自分がしようとすることの邪魔をことごとくされる。能力が無いくせに男の嫉妬というのがあるんだな。アホクサ!何をしても足を引っ張られるのだ。リーマンというのは実に下らねえ社会だなと思ったが、人事に口を出して部下の入れ替えをした。社長の息子(専務)は僕の大学の8年先輩だったからなんとか無理が利いたのだ。新人を6人貰って、新事業部で新しいアイテムと顧客を作りとを寝ないでマジに働いて、5年でゼロから10億のロットのビジネスに育った。会社には僕が純益で2億は落としていた。僕のギャラはたかが当時で600万だ。だから誰も僕の批判をするものは社内でいなくなった。6億の年間仕入れ枠を持っていると様々なことが業界で政治的に出来るようになる。だが翌年他の事業部が失敗して会社が傾きかけた。賞与も出ない状態になった。僕の事業部は儲かっているのに、、、。リーマンはアホクサいなあと思った。
それで馬鹿らしいから辞めて、友人と同じ業界で同じような会社を作って同じようなことをした。独立は30歳だった。このとき多分3000万ぐらいは個人的に金があったと思う。結婚もしていたし子供も2人生まれていた。マダムが黄色の中古のメルセデスが欲しいというのでそれに乗っていた。230Eという縦目の6発だ。その後会社も当たって5年で7億のロットに育った。ジャガーやメルセデスの大きな車に乗ってギャラは3000万ぐらい取れていた思うが、身体がきつい。何度も胃潰瘍になった。睡眠4時間で体重が48キロだ。(身長は172センチだ)相場も張った。33歳で1億以上金があったと思う。三菱地所とか日立とか優良株中心で80年代末は年間数千万は取れた。それからは遊んだ。勝つ分は全部遊ぶ。金は仕事をするのに必要だから作ったまでのことで、生活費は結構地味だったと思う。月に100万ぐらいしか使わなかったと思う。(30代は)36で飽きたので仕事を辞めて、プラプラしながらどうやって相場師になろうか考えていたら林サンの本に出会った。猛烈にグラフを書いた。月足と折れ線を毎日17時間ぐらいは書いていた。10年分1000枚書くのに半年ぐらいかかったと思う。場帳も200銘柄の4本値だ。それ以来、ずっと同じ事の繰り返しである。親に貰った金で仕事や相場をしたわけではない。親父は僕が24歳の時に死んだから、死んだ時に思ったものだ。「これで俺の後ろには誰もいない。だから自分で判断して自分のリスクで生きる以外に方法は無い。」覚悟が決まったのが早かったからその後の仕事の甘さが消えたと思う。競争に負けた奴は殺される。嫌なら勝つ意外に方法は無いと。親父は書店をやって61で死んだ時は1億弱の遺産を残したが、税の支払い以外は全部兄弟は母に残した。母も5年前に無くなった。仕事は何で評価されるのか?資本主義が仮に正しいと仮定するのなら、量的評価以外にない。つまり金が評価軸だ。それが全てというのがこの世界の掟だということだ。それ以外の価値が無いとは言わないが、それは趣味の世界ですることだ。
子供の頃はサラリーマンの家が羨ましかった。日曜に休めるからだ。我が家は一年でほとんど店を休まない。休むと即、売り上げが落ちる。だから子供でも交代で店番をする。まあ昔の丁稚と同じ事を子供がするのだ。だから親がどんな苦労をして金を稼ぐのかは理屈抜きで見ている。上手い下手はあるものの、金はそうやって作るものだ(勤勉に働いて苦労してという意味)というのが知らないうちに身体に染み付く。親父は相場をしていたがあまり上手くはなかった。死んだ時は空売りを是銀に担がれて800万ほどを損きりで手仕舞いしたと思う。だがそういう世界があるのを知ったのは親父の口座があったからだし、学生時代に500万ほどの現金を持って、証券会社に届けに行った覚えがある。もしかしたら追証だったのかもしれない。(笑)
個人的な考えだが、人間は何かになりたいと思う。なりたいものがなければ多分良くて今のままだろう。それがあればなんとかして何かになれるものだろう。それを欲望というのだろう?今ではない何かになる。もっと今とは違う自分になる。そのためには自分で決め自分で努力する。そのプロセスを人は希望と呼ぶんじゃあないのかな?それにはきっといろいろな方法を自分で見つけるだろう。本を読むのも方法だ。学校もある。だだ、実際の仕事はやりながら身体で覚えるのが確実で早いと思うが、なんでも失敗しながら覚える以外にないだろう。ただその失敗が致命的な失敗だと相場師は即死になるから少なく張れということになるのだろ?リーマンの息子はリーマンになりたいと思って勉強するからリーマンになるんだろうと思う。仮にあなたがリーマン以外になりたいものがあるのならそれにむけて地味でもコツコツ努力をしたら良いと思う。成功するかどうかはやってみないとわからない。諦めるような年でもないだろ?まだ始まったばかりなんだから。僕は相場師になりたいと思ったからそうなったのだろう。でもなって金が少し出来ても大きな満足感なんてないよ。良かった事の最大は48キロの体重が62キロに増えた事。これ以外に僕個人にとって凄いと思えることは何もない。生まれて初めて標準体重になれたのだ。誰にも邪魔されないで迷惑をかけないで気楽に生きることが出来るというのが少しはメリットだろうが、僕の反対側は死屍累々というのも承知しているよ。それが資本主義の本性なのだから、しかたないだろ。殺か殺れるかしかない世界だから、、。自分で望んで選んだ以上、男に泣き言はダメよ。(最近は女性もきっと同じだと思いますが、、)なりたい自分に成る以外に人生の仕事なんてないんじゃないの?と目的指向の強い古い爺は思っていますが、こんなもんで少しは参考になりますか?
マダムに言われるのね。「あなたの体重が増えたのは、料理を自分でして好きなものばかり食べるからです。」なあーんだ相場師とはちっとも関係なかったんだと思いました。
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差し支えなければ伺いたいのですが、震災でどのような心境の変化があったのでしょうか?
また、東海地震の震源近くに引っ越されたのはなぜなのでしょうか? 


こんな質問がありました。答えになってるかどうかわかりませんが、雪に絡めて僕の危機についての思いを書きます。震災で心境の変化などという高尚なものは何もないですが、大家に震災後に突然放り出されたのです。マンション壊すんで直ぐに立ち退けということで。別に建物はどこも壊れていないのにね。多分お年のせいで相続がらみだろうと思います。土地だけで15億ぐらいの物件でしたから。失礼な大家だから脅して500万ほど戴きましたが。(半年分の家賃です。)生きているのは幸運だからというのはTV見て誰もが感じたでしょ?だからもうすぐ死ぬのだから好きな事だけしようと思いました。明日死んでも悔いが無いように。それまでも同じようにしていたと家族や友人は言いますがね。(笑)でも住むのが一人は初めてです。それでなんとなく温泉があるのが良いな景色も良いのがいいなと思い、衝動買いで見てから10分で即金ニコニコ現金払いでここに決めました。他はどこも見てません。なんでも衝動買いです。車もマダムも全部衝動買い。30年間いつも同じ。あのパッと閃くんです。これが良いって、いつもそうです。だから考えたりはしません。いつも感じで決めてます、というか決まってます。マダムは中野にまだ住んでて花屋を娘とやってますよ。友達全員がついに猫は離婚したかと喜んだらしいのですが、離婚はしてません。してくれませんよそんな簡単には多分。(笑)田舎暮らしは無論初めてですが、してみるとなかなか静かで良いです。何でも安いし。駐車場は屋根付きがタダです。何台止めてもタダ。中野では毎月10万払ってました、駐車場代。温泉は月に3000円で何100リットルでも使い放題。イノシシが週3で出るほど(笑)山奥です。鹿も狸もでます。東海地震も東南海も首都直下も富士山爆発もどれも起きる順番も時期も予測できませんでしょ?ということは運ですね。日本中原発ばかりでどこにも逃げようがないですね。運ならそれが起きるまでは快適なほうが得だなと現実快楽重視で決めました。いつも快楽重視。経済は後回し。金は少しあるからどうでもいいの。でもシンガポールかバリに家族用にコンドを買ってもいいかなとは思ってますが、飯がまずいでしょ。だから死ぬならやはり日本がいいなと思ってます。せいぜいあと10年ぐらいしか寿命がないでしょ。僕は58ですから70は無理だろと思ってます。だって人の1/10しか働かないで10倍良い思いしている者が人様より長生きしたらあんまりにも不公平でしょ。罰が当たりますよ。だから遊んで悪さばかりして贅沢した分は10年マイナスです。地震はあってもヤバいのは津波ですから山の上なら(ここ海抜750mです)波は多分来ませんね。来たら日本全部沈没ですから生きててもしょうがない。(笑)子や孫より長生きしたくないもん。ここの地盤は熊谷組が基礎を100メートル打ったそうだから地震でも揺れません。ニュースで震度3の表示でも感じないほどです。東海でも多分大した事はなさそうです。きっと近所の断層(函南断層)で遮断されるのかもしれません。
東京にも30㎝近い大雪が降ったという報道があった。ダイヤランドは40センチぐらい降ったから、それほど都心と差がなかったのだなと思った。山の暮らしに変わって2度目の大雪だが、東京のそれは65年ぶりだそうだから、今年は記録破りの事が今後も起きるのかもしれない。都心で直下型の大地震が起こらなければ良いと思うが心配だ。メインの道は除雪されスノータイアでなくても走れる状態に午後はなっていた。結構サービスが良いのだなと感心した。かといって走る用事もないしその気もないが。2キロほど散歩してみたが登山靴とストックは便利だ。多少の雪なら全く滑らない。別荘の住人がたくさん出て雪かきをしていた。大抵は60代より上の引退族である。日本人は真面目だなあといつも思う。目の前にするべき事があると即座に対応する。だが彼らは通常時のように状態を整えるというのを真面目にするのだが非常時に対応する用意や行動はどうだろうか?ものぐさな僕は雪は1週ぐらいで多分解けるだろうから何もしない。面倒だし疲れることはしたくない。今日したことはファンヒーターに灯油を入れただけであとはグラフを見たり音楽を聴いてぼんやりと読書していた。そしてこれが1ヶ月続くことを考えていた。雪なんかいくらかいても問題の解決にはなりっこない。ハマーかレンジローバーがいるかなやはり。
さて最近の株価の変動幅は少し大きなうねりとなって株らしい動きになってきたような気がする。一昨年までは底にへばりついてリズムの動きもせいぜい7-8本の往来で取りようが無いつまらない動きだったから、何もしない一年だった。適当に安値を買ってずっと放置していた。100円以下で買った物がその後の急騰で化けて美味しかった。154円の東京ドームが741円で売れたり900円で買った平和不動産が2275円で売れたりと大当たりの倍加の値幅が稼げた年だったからあまり細かい操作をしなかった。唯一したのは5月に崩れた後に戻り高値を少し試しに空売りをして7-8月に主力を売って(野村、三菱UFJ,マツダ、新日鉄など)少し取ったが大きくは崩れなかった。踏まれたものもあったから空売りのみではトータルで200万ほどの利食いにしかならなかった。それでも連休直前と年末に手仕舞いして休みを入れたのは良かったと思う。安値で建設を夏場に16ac万株ほど仕込んだら9月のオリンピックでまぐれ当たりして熊谷組などが急騰して倍化して儲かった。年末に節税もあっていやいや利食いして、年明けにまた買いで70万株ほど入った。2月に少し崩れかけたが戻りが急だから、多分また戻り高値を取ってくるのだろうなと月足グラフを見ながら、何もしていない。たったの1週間で15%も行ってこいがゴロゴロしているということは、long-shortのヘッジ系は値動きにはイーブンであまり結果的には影響していないと見て良いだろう。long onlyのペンションファンドは日立、重工、NECを見ても積極的に買って来ていると思われる。下がれば買うというスタンスであるし、個人も1月は大きく買っているから下値は一瞬しかないようである。結論として300円以下の低位株は適当な安値を拾って買いっぱなしにして数倍で売るのが一番楽に儲かるということだろう。日柄はまちまちであるから、急いだら負けである。放置していたらたまたま上がったというのを待てば良い。ナニ、順番に人気が廻るだけのことだ。やがて全てが上がるということになるんだろう。それは1983年から数年間のグラフに似てくると思われる。ここにきて100円以下のものが随分と減って来た。やがて200円以下もそのうちにほとんど無くなると思われる。変動率で低位株有利な状態が今後も続くだろう。意外な事が数十年ぶりに次々に起きるというのが相場でも出るのだろう。
 月足グラフの陰線を書くのに僕は2ミリ幅のマーカーを使用しているのだが(PIGMA GRAPHIC20)20本ほど山に入る時にあった在庫がついになくなった。沼津や三島の文具屋では売っていないのだ。それで世界堂のオンラインで買う事にした。少し専門的なものは、地方ではなかなか手に入らないのだなあと思うとますますWEBに頼るようになる。全紙版のグラフ用紙も世界堂オンラインで結局買ったし、ペンのインクも種類があるのはWEBである。佐川や大和便は毎日山の上まで配達に来るから、早ければ翌日には手に入る。アマゾンは送料がかからないサービスがあるからなんだかんだとついつい買うということになる。地方の辺鄙な場所ほど、欲しい物が決まってさえいればWEBの比率が今後もどんどん高まるのは必至と思われる。大阪駅で三越伊勢丹がたったの3年で失敗して撤退するという記事を読んだが、まだ僕は一度も行っていないのに潰れてしまうのだ。小売店は設備投資が大きいから実にリスキーな商売であると言える。一方、アマゾンのように最初は物流を整備するのは大変だろうが、一旦顧客がサービスを定期的に使うようになると稼働率が上がれば自動的に採算点は下がるから価格やサービスでの差別化がますますしやすくなってシェアを拡大するのは必至だろう。そう長い時間がかからずに今後全消費の何割もがWEBにシフトするのではないか。すると物流、倉庫、運輸企業の株価は上がると思う。顧客のニーズは自動的に分析され予測されさらに回転率は上がる。これに既存の小売りが勝つのは容易ではない。GMSも苦戦しているが、結局家族の単位やライフスタイルが大きく変わったから、コンビニのように個単位の商品販売を追求する以外に手が無いのだろう。僕も基本は一人暮らしだから、大きなキャベツを1個買っても困ってしまうのだ。いつもハーフカットを買っても半分は棄てる。キャベツばかりを食べる人はいないだろう。カット野菜がコンビ二で売れる理由がよくわかる。
 今年から消費税が上がる。労働者の3割以上が非正規社員らしいし、所得が200万以下(とても僕の感覚では考えられないが)がそんなにたくさんいるとすれば、今後税が15%ぐらいまで上がるのは必至だろうから、貧乏人いじめになるのは眼に見えている。貯蓄ゼロ世帯も3割いるらしい。それなのになんで自民を支持するのか理解できない。都知事選があって自民推薦の舛添が勝ったようだがなんでだろうか?社民と共産以外にまっとうな政策を上げている政党はないと思うのだが、貧乏人は選挙にいかないんだろうか?と不思議な気がする。所得が200万だと30年働いても6000万にしかならない。これで結婚して子供を産んで育てて東京で(都市部以外でも)家を建てるなんて絶対に無理だろう。すると3割の人たちは子供が持てないから、その分次世代の人口は3割は確実に減る。残りの7割が全て結婚し2人子供を産んで育てるとは到底思えないから、仮に一人だとすると次次世代には人口が3分の一ぐらいまで減っても不思議は無い。すると韓国の人口以下になるということだ。まるで江戸時代の人口だなあと思う。そんな状態で老人の世話を誰や焼けるというのか。行政は放置するに決まってる。僕は子供が2人で、孫は現在3人だ。多分まだ増えるだろう。遺伝子が残って重要な仕事は既に済んでいるから、後は死ぬまで楽しく遊べば良いだけの気楽で余計な老後だか、山で暮らしても非正規の30倍以上は今でも稼ぐ。多分生きていて市場が普通に機能すれば10年で数億は稼ぐだろうから家族が所得が一生ゼロでも心配は無いが、彼らも彼らなりに働いている(いく)だろうから金の心配は一切していない。元気が一番、身体が丈夫なら人生は楽しいから、それだけ気をつけろと言っている。これで年金制度が破綻して不払いとなって、GDPが人口減少で激減するとどんな日本になるのだろうか?貧富の差が極端に拡大していくのだろう。ゲートシティーのように安全を金で買うような社会が来るのかもしれない。
ダイヤランドのような姥捨て山では略奪が起きるだろうか?多分死んでもしばらく数ヶ月発見されないというケースが激増するだけだろう。日本の老人は人を殺してでも自分が生き残ろうとはしないだろう。有る意味お行儀がすこぶる良いのだ。他人の家を襲ってもあまり財産になるような金目のものは多分ないんじゃないか?テレビやソフアーや絵やピアノを取っても腹は膨らまない。食料が絶対的に不足すればそういうことが少しは起こりえるが、それは核戦争とか大都市部の大地震とか政府機能の麻痺の継続以外は考えにくい。この場所だけで起きるというよりは日本全体の補給が途絶えるという事態になればどこにいても同じだろう。都会のほうが危ないとも言える。密度が高く逃げ場が少なく競争が激しいからだ。田舎ならそこいら中に畑があって幾らでも野菜だけはある。金を払えばすむことだ。水が止まると2週間で都市では殺戮略奪が起きるという米軍の予測がある。電気が止まれば自動的に東京の水は止まるのだ。それを聞くと家族全員をここに呼んだ方が良いかなと思う。三島は湧水があって、日本一旨い富士の湧水がどこでも飲めるのだ。そこまで歩いても半日でたどり着く。車なら20分だ。町中で富士山の湧き水が湧いている不思議な場所である。それでも富士山が爆発すると今後は出るかどうかはわからないけれど、、。山屋で売っている2万ぐらいの濾過装置を買っておくときっとすごく便利だ。雨水ならいくらでもあるから。
MADMAXという映画が昔あったが、その近未来映画ではガソリンや燃料、食料の奪い合いが起きていた。マッカーシーの小説の想定も水と食料と薬品(あと美女と)の奪い合いが起きるというものだった。この前の震災でも都内はガソリンの販売制限があって苦労した。20Lじゃメルセデスのでかいのは走らない。基礎的なものは有る程度備蓄はしておいたほうが良いだろう。1トンぐらい入るガソリンの大型タンクでも作るか。いやそれより国道沿いには潰れたガソリンスタンドがゴロゴロあるから、あそこを叩いて買うか借りるかしたほうが安全だし効率的だな。タンク一個で何トンガソリンが入るのかな。狩猟免許でも取れるのならライフルを何丁か買っておくか。こんなものを使わないで済むにこしたことはないのだろうが、100年に一回とかいう稀なことが起きるご時世だから、警察や自治体は当てにならない。危機緩和投資が無駄になるぐらいのほうが長い眼で見ればお得だろうと思われる。そういう時はお金なんてあってもほとんど役には立たないのだ。だからお金は平常時に多めに使う方がお得で楽しいのであるが、貧乏な人ほど逆の行動を取っているのが現実だ。まあだから貧乏なのだろうと思うけど、、。婦人雑誌で「お得特集」とか「節約特集」というのをよくやっているのでマダムが買った雑誌をたまに見るのだが、こればかりは視点がみみっちすぎる嫌いがある。編集者もライターも多分貧乏だからだろう。当然発想まで貧乏なのだ。こんなことをしても暗い気持ちになるだけでなんの効果もないと思う。稼ぎに追いつく貧乏無しと言うではないか。

猫次郎の50日

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ブログを再開して50日ほどがたったようだ。12月のクリスマス前から再開して12000以上のアクセス累計となっている。一日平均だと270程度、再開当初は150ぐらいだったが、ここにきて毎日300程度、暴落時は500近いアクセスがあった。日本人は暇なんだなあと思う。他にすることないのかな?相場戦力研究所のリンク以外は知らない人のリンクだから、多分相場師の人もごくわずかはいるだろうが、大半は昔の弟子か生徒だとすると数が合わない。そもそもブログなんてのぞき趣味の派生版みたいなものだから書く方も破廉恥な露出趣味が心のどこかにないと続かないのだろうと思う。良きにつけ悪しきにつけ自己顕示欲の無い人が書くとも思えないし、訪問者というのをたどっていくと様々なページにたどり着くが、長文のテキストを書いているような人は非常に少ない。文章のプロの書き手はゼロと言って良いだろう。僕のテキストは、だらだら長いし、相場以外の分野の引用も多いし、あちこち話題が飛びまくるから、以前の猫塾の塾生たちのように僕を個人的に知っている人なら「ああ、いつもの猫節ね、、」と慣れたものだろうが、始めて読むような人には正直、「精神分裂症かこいつは?」と感じる人も多いことだろう。だが読むのは読む人の責任において為されることだから、当方は文責を逃げる気はないものの、真実が書いてあるなどと真に受けてユメユメ騙されないように願いたい。「そもそも真実ってなんだ?」とういうのが定説は無いのだから。真実とは何かを措定してみろと質して合理的で明快な回答をするような人間に僕はまだ一度も出会ったことが無いのである。全員が黙ってしまうのだ。自明の理を聞かれて困るの人は前提を疑る習慣の無い人のことである。きっと良い人だろうとは思うが商売や相場には向かない。テキストは書かれた時点から書き手を離れて読み手の中で、様々な言語解釈を通じて勝手に変化して行く。アレンジメントとはそういうことだ。発話者の意図と受話者の願望が一致することは奇蹟であるという文学の統計と可能性を僕は信じたい。相場と同様に、多数決とは反対側に勝者の数が有るという事実を忘れている人が大半である。相場で失敗して自殺したり家を売る人の話は新聞に出ないのだ。新聞のスポンサーが銀行や証券会社だからに他ならない。悪影響のあるニュースは乗らないのだ。
 ブログの内容は、僕の相場観がたまにほんの少し書いてあるが、たまには書かないと昔の生徒や弟子に僕の強気が伝わらないとリアル感が不足して現実的な興味がわかないし、次のドテンまではまだ相当時間があるような気が現在もしているから、揉み場の暇つぶしに当たらないポジショントークをしているだけのことにすぎないから、どうでも良いことである。すぐに曲がるのは僕のことを以前から知ってる人には有名だからどうということもないのだが、始めて見るような人はきっと混乱するのだろう。売買譜も少しは書くがここは塾ではないし、商売でもないから、いわば僕の落書き帳である。だから相場の質問は当然基本的に完全無視される。相場の事は林サンの本か相場戦略研究所の過去ログを読めという以外にないのだ。それでもわからないとか出来ないなら相場など止めてしまえ。いや止めんでもいいや、俺の餌に当面はなっていてくれ。そいつは多分怠け者か、頭が悪いか、我慢が足りないか、金が足りないか、感覚がないか多分そのいずれかあるいは全てだろうということだ。誰にでも出来る仕事ではないのは当たり前の常識である。ほとんどの人には多分出来ないか向かない仕事であろう。マニュアルがない世界で生きて行くというのはそういう事である。
ヤフーブログの運営法も全く知らないし、写真が簡単に乗るという理由だけで選んだのだがら、いろいろ付属の機能があるらしいが、全くイジル気も興味もないのだ 。仲間がどうこうも煩わしいから関わりたくない。一番簡単に手抜きで儲かるのは100円以下で買って1000円まで売らない林サン式の5-10倍化するまで月足グラフ以外はなにもしない投資法だろうと思うが、それだと毎日の暇が潰れないので実に困るのである。ただし前回は中段で折れてFAIがしくじったのは記憶に新しいだろう。選定したものが次々に除外となって、選定値の半値になったものがゴロゴロ出たが、多分爺さんは80過ぎてボケてたのだろうし、ともちゃんは下手というか相場師ではないからしかたがないだろうと思う。逆指しも出来ない、投げもしないでどうやって相場で飯を食うのか聞いてみたいが、まあ下手とはそんなものなのだろう。
 やることが無いというのもそれはそれで困ることが多いのだ。それでブログを書くことにしたのだが、それは自分の暇つぶしのためなのである。書くなら書くで、ネタがいる。ネタは具体性がないとつまらないから、あまり専門的なものは一般性がないと読んでもつまらない。だから食う、寝る、遊ぶ、張るという基礎的なことが誰にでも理解しやすいだろうと思われる。「働く」という項目は入れていない。それが嫌で相場師になったのだがら、嫌なことを書くのは気が進まない。事実何も働いていないのだから書きようが無い。読んだ本のことが多くなるのは、時間が余ると本ばかり読んでいるからだ。特に現代フランス哲学系の本が多いのは、相場の構造や値動きの説明に実にぴったりと合致するテキストが多いのに気がついたからだ。別に読んだからと言って相場の技法の上達には関係ないと思うが,大金を作ってあなたはどうするの?どうしたいの?という根本的な動機と手段と目的を自分で疑ってみることは最初にしておく一番重要な事だと思われる。それを考えもしないで金だけ作れば幸せになれるだろうという子供じみた幻想で相場をしているようなアホが相当に周囲には多かったからである。そんな大事な物が金で買えっこないだろうに。金で買える物は伊勢丹本店で売っているようなものが大半だ。マテリアリズムのために相場を張るのなら奢侈をしてなんぼの世界である。それ以外の消尽の価値観があるのなら教えてほしいものだ。生徒や弟子で金を上手にスマートに使えるような人はまず見た事が無いというのも不思議な気がするのである。「オメーラ、アホか、金は使ってなんぼだろ?」と思うのだが、いくら稼いでも吝嗇の癖は抜けない人が大半である。だから相場でロールス、フェラーリ、ベントレー、アストンみたいな派手で実用にまったくたたないような無駄を買うような人が少なくても周囲で10人やそこいらは出てくるまで、この上げ相場は終わらんじゃないの?と僕個人は感じている。アホでも儲かるというような熱狂がないと大きな相場は普通は天井しない。金の使い道が具体的にない人には絶対に金は来ないというのが持論である。だって必要と動機のないところにそんなものが長い間留まっている理由などないからだ。金というのは不思議なもので、無い人の所には決して行きたがらない。金はビビッドに出入りする所に集まるという習性があるんじゃないかなと思うのだ。だから稼いだら応分に贅沢をしたほうが結果的に効率が良いよと経験的に思うからそういうテキストになっているが信じる人は少ない。日本人の伝統的な価値観と相場師の価値観は対峙するものがほとんどだから多くの人が受け入れがたいと感じるのは当然だろう。なぜなら価値観の目的が正反対だからに他ならない。社会を安定化するのが伝統なら不安定化するのが投機である。相場師とは投機の主体であるのだからそもそも伝統的でいられるはずがない。非常識な破天荒さは当たり前ということだ。エンジンでも燃焼効率という考えがある。吸気と排気の効率が悪いとシリンダーが幾ら大きくてもパワーが出ない。相場の効率とは金の増殖だろうが吹き抜けるように回転するためには吸気以上に排気がスムーズでないと新たな回転は生まれない。資本の性質はエネルギーの幻想的な転換であるから巨大な幻想を餌に資本は回転すると個人的には考えられる。吐いた量よりたくさん入ってくると信じる感覚がないと入るものも入らない。建てる、増す、維持する、落とすというプロセスでの切れ味の問題である。
さて相場はいつも通りの窓埋めの戻りに入っている。2.4を大半の底として2-3本新値を数えて窓を埋めるというプロセスだ。昨年6月はW底と下で少し揉んだが今回はスルスル戻るから、売り方の買い戻しが急だということだろう。売り込みすぎて少し慌てている感じである。別段外部材料以外にネタはないから、正気に戻れば玉がないと商売にならないということだ。緩和が続くが雇用は思うほど改善しなかった。金利も大きくは動かない。金の行き場が無いほど余ってるのならリスクオン以外選択肢は無いということに多分なるのだろう。
Cash is king.の時間割はとっくに終わっているということである。強気相場は心配の壁をよじ登るを地でいっている相場が当面続くだろう。まだしばらく熱狂は来ないだろう。突っ込んだ分だけ反発の力は溜められている。思わぬ高値が出るのかもしれない。
音楽が鳴り続ける限り、われわれはダンスを止めるわけにはいかない。

回帰不能地点OVER

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問題のすべては、批判的思想を放棄することにかかわっている。この種の思想は、われわれの思弁的文化の本質そのものではあったが、すでに過ぎ去った時代と生活から生じたものだ。主体と客体、目的と手段,真と偽、善と悪などから成る因習的世界は、もはやわれわれの世界の現状に対応していない。時間や空間、決定や表象、そして批判的で反省的な思想などの「ノーマルな」次元は欺瞞に満ちている。われわれをとりまく、心理学や社会学やイデオロギーの言説は世界の罠でしかなく、いなまおユークリッド的な次元で機能しているにすぎない。ところが、知らないうちに量子的な世界について、われわれはほとんど何一つ理論的直感を抱いてはいないーーー同様に、シュミレーションの領域についても、これまでは乏しい理論的認識しか持ってこなかった。我々の現実世界はずっと以前から、知らないうちにシュミレーションの領域に移行しているのに、あいかわらず客観的事実という観念に盲目的に忠実でありつづけている。われわれの時代の真の欺瞞はこの点に、「現実」と現実原則というしつこくつきまとう迷信のうちにあるとさえ言えるだろう。
 これまで、われわれは決定論的社会を決定論的に分析してきた。いまや非決定論的社会を非決定論的に分析する必要があるーーーフラクタルで偶然的で指数関数的な社会、臨界状態に達した大衆と極端な現象から成り立つ社会、不確実性の関係にすっかり支配された社会である。この社会では、すべてが不確実性の関係にとらえられる。社会的決定などという言葉で(たとえそれが批判的なものであろうと)この社会に接近することはできない。これまでは、いつでも危機が緊張と矛盾という運命を用意してくれた。危機はわれわれの歴史のごく自然な運動だったのである。だが、われわれはもはや真の危機を知らない。カタストロフィーの渦中にいるとはいえ、物質的な消滅の危機の意味ではなくて、あらゆるゲームの規則の錯乱という意味でのカタストロフィーだ。
 カタストロフィー、それはもはや規則にしたがって機能しなくなったことがらの突然の侵入である。あるいは、われわれの知らない規則、おそらくわれわれがけっして知ることのない規則にしたがって機能するようになったことがらの侵入と言ってもよい。そこでは単純に矛盾したり、非合理的であったりするものは何一つ存在しない。すべては逆説的だ。終末の彼方に、現実の過剰、肯定性の過剰、出来事の過剰、情報の過剰のなかに移行すること、それは逆説的な状態のなかに入り込むことである。この状態は、もはや伝統的な価値の復権で甘んじることができないので、それ自体が逆説的な思想を要求する。もはや真実なるものの原則にしたがわず、みすからの真実を立証することの不可能性を受け入れる思想である。
 われわれは回帰不能地点を超えてしまった。この地点の向こう側では、事物はこちら側とは別の曲線にしたがって継起する。直線的な展開はもはや問題ではない。すべては事物のコントロールを不可能にする混乱状態に、あっというまに吸い込まれてゆくーーー時間の支配もその一例だ。世界中の情報が同時性を持つようになり、あらゆる場所が事実上一点によせ集められるというこの透明性こそは、時間にたいしてなされた完全犯罪そのものなのだから。
  不可能な交換  ジャンボードリヤール 2002 紀伊国屋書店 より転載

 ボードリヤールのテキストはカメラアイにより切り取った切断面の描写に小気味よいアイロニーと辛辣なジョークで装飾されてはいるものの、いつ読んでもストンとストレードに心に落ちる。10年前に死んでしまったのが惜しまれる。まるで澄んだ空気の秋の日和の遠景に巨大な富士が山頂付近に層雲を纏って静かに微笑んでいるかのようだ。カタストロフとはその富士がいきなり予兆もなしに轟音と振動を伴って目の前で噴火するというような事態のことである。僕の部屋のテラスから見たらかぶりつきの絶景となると思われる。実に楽しみな地獄絵であろう。熱海の花火の1000倍興奮するだろう。こうした逆説的な状況の中で僕たちは無意識に生活しているわけだが、そんな割には結構しらけて災害が起きても自分だけはなんとか生き延びるだろうなどど能天気なことさえ考える。直接溶岩に飲み込まれるのならいたしかたがないが、一瞬で60キロも溶岩が走るはずも無いから、きっと自衛隊か民放のヘリが現場を上空から実況しているのを見ながら、「よし溶岩もっとがんばれ、あと5キロで東名が飲みこまれる。すると日本の物流が止まるからすごいことになる!ゴジラの映画そのものだな。多分駿河湾に第七艦隊の空母がやってきて避難民を乗船させて助けるかもしれない。レンジローバーで走れば俺も載せてもらえるかな。残念買っときゃよかったぜ。」なんて不謹慎なことをきっと言っているのだろう。そうやって数百年とか千年とかに数回起きるようなカタストロフにも能天気でやり過ごして来た幸運な人々が事実たくさんいたから日本人は生き延びたのだろうし、津波であれ、噴火であれ、疫病であれ、死ぬ奴は死ぬし残る奴は残る。生命の原則だからしかたがない。なかなか全部が同時には死なないのが人間のしぶとい所と言って良いのだろう。だから人類の心配をするのには及ばない。自分と家族がどちらになるのかだけ考えて準備しておけばよろしかろう。
 不可能性を受け入れる思想とは、結局「南無阿弥陀仏」と似ていなくもない。つまり諦観である。あーとても簡単だ。諦めて見なければ良いだけのこと。僕は毎日と言っていいぐらいやっていることである。「いいよ、そんなもん、面倒だからいらない。」それでことは済むのである。すると知らないうちに状況というものは変化するものだ。自分に都合の良いように変化することは事実上極めて稀であるが無いことも無い。だがとっくに心の中では諦めがついているのだから、痛くも痒くもあまりないのだ。そう完了してしまったことは完了しているのである。だからお釣りのことはどうでも宜しい。そんな起きるかどうかも知れない未来のことを考えるのはテレビの災害特集の翌日ぐらいのもので、結局救命胴衣を4つセールで買ってメルセデスのトランクに2個ずつ入れただけだ。街に降りた時に津波がたまたま来たらそれを使うかなと思っただけのことで心理的ななぐさめ以外の何ものでも無いだろう。冬に身体が濡れて冷えれば低体温症で4時間で人間は死ぬのだから浮いていても気休めにしかならないのだ。明日死ぬのか、10年後かそれがわからないから人生は面倒くさくてかつ面白いということなのだろう。ということは今を楽しんだほうがお得である。というわけでもないがイタリアから服を買ったのが届いた。2月1日のオーダーだから1週間で注文したものが届く。便利な世の中である。買ったのはダークビッケンバーグというデザイナージーンズにパーカーを2点、それに革のサンダルだ。しめて22000円。送料無料である。セールで全部7-8割引の特売品だがもともと5万円のジーンスは少し高すぎる。ユニクロなら同様な品質が3900円で売っているし事実それも4-5本は持っているのだが、消費は過剰を良しとするという僕なりの相場師の習いに従って常に買っている。毎シーズン買っては棄て買っては棄てである。GQを見ていたら今月号にアルマーニがジーンズを作っていた。企画物で、日本、イタリー、アメリカでそれぞれ純国産の素材と縫製で3つの国柄のジーンズを作るという企画で限定600本の販売である。それぞれ64000円のプライスであった。日本製のそれはご存知カイハラ製のデニムである。これはユニクロの高いラインの素材と同じである。カイハラのデニムは事実素晴らしい。以前ジルサンダーのジーンズを買ったがこれもカイハラのパウダーウォシュデニムだった。これはバーニーズのセールで3万円だったから元値は6万ぐらいだろう。こうした無駄な消費のほうが救命胴衣を買うより楽しいのはなんでだろう。多分無駄な過剰というものが必要な現実を凌駕するという心理的なバランスの結果と思われる。僕たちは多分回帰不能地点を超えてしまったのだろう。なんとなくそんな気がする。超えてしまったことを今更とやかく考えてもしかたない。だから踊らないのは損である。あのゴールデンボンバーと同じように。メルセデスの550CLからニット帽とサングラス、スカルプリントのパーカーに古着のように穴の開いたジーンズで東京三菱銀行のパーキングから降り立つ僕はきっとあの「オレオレ詐欺」の出し子のようだろう。それでもマダムのボッテカベネタの10分の一にもならない。女の勝ちは圧倒的だ。
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