親愛なるピエール
「生きた貨幣」を最初に読んだ時すぐにお返事を書くべきだったでしょう。言うまでもなく、読み終えて私はすぐ息を切らしていましたが、反応することはできたはずです。何度となく読み返した今、私はそれが、私たちの時代のもっとも偉大な本であると思っています。あれこれのやりかたで重要であったものすべてーーーブランショ、バタイユ、「善悪の彼岸」もまたーーーーの道がひそかにここに通じていたという印象です。いまや肝心なことは言われてしまった。しかも非常な高みから。だからこの先すべては後退であり、もはや半ばしか重要でないと感じます。考えなければならなかったのは、まさにこのことでした。つまり、欲望と価値とシュミラークルーーーこの三角形が、私たちの歴史においておそらく何世紀も前から、私たちを支配し、私たちを構成してきたのです。「フロイトとマルクス」と標語のように言って来た者たち、今でも言っている者たちは、彼らのもぐら塚のような小さな世界で、その問題にやっきになって取り組んできたのです。いまではそれを笑うことができます。なぜかは言うまでもありません。
サドが決定的に刻印した真実、あなた以前には誰も周りを経巡ることをしなかった真実ーーー本当を言えば、誰も近寄らなかった真実ーー
、ピエール、あなたがいなかったなら、私たちはその真実に逆らいつづけるしかなかったでしょう。あなたは私たちの悪しき宿命を語り、それを霧散させたのです。その宿命がどこにあるかを私たちはもう知りません。だた、あなたが語ったところにそれがあるということを、私たちは知るのみです。
ミッシェル フーコー 1970冬
「生きた貨幣」ピエールクロソウスキー 青土社より転載
ミシェルフーコーとピエールクロソウスキーをご存知だろうか?というような野暮は質問はすまい。仮に知らないなら読む意味は無いし、頭が多分痛くなるからやめた方が良い。価値について、あるいは貨幣と資本主義と幻想について仮に興味があるのなら読んでみたら良いだろう。だからといってこれを読んだから相場がどうこうということは一切ないだろう。むしろ相場をすることが空しくなる、経済活動をすること自体が空しくなるかもしれない。相場師は強欲である。相場などしなくても普通の人間は真面目に働けば現在先進国に生まれていれば十分に豊かな生活をすることが恐らく出来るだろう。それではなぜ人間はさらなる欲望をするのか?現在を否定するという動機がなければさらなる欲望は生まれないだろう。ならばどう行動するか?という問いに相場をおそらくするのだろうと自問してみる。相場に乗って金を作って果たして人間は満足するのか?この答えも否というほかない。いくら取ろうが、自分で消費しきれないほどの金を作っても相場師は満足しない。果たしてこの情欲とは何だろう?ふとそう思う。相場を止めてしまって、このまま安逸な老後を何故是銀は選ばなかったのか?80歳を過ぎてもなお彼を相場に向かわせたものとは何か?そんな疑問があって僕はこの本を読み始めていた。内容は興味のある方はご自分で確認されたら良いだろう。フーコーとクロソウスキーは20世紀の人である。しかも世紀を代表する偉大な思想家と言って良いだろう。この本の邦訳を兼子正勝が解説に次のように書いていることだけをご紹介しておく。
振り返ってみれば、20世紀の諸処の言説は、愛や情欲を交換不可能なものとして語り続けてきた。愛には相手を殺すサディズムか自分を殺すマゾヒズムしかないと言ったサルトルや、あらゆる愛はナルシスティックであると断言したジャックラカンをおそらく理論面の頂点として、他者を絶対の「外」として立て続けるレヴィナス亜流の思想家たちや、他者を欠いたナルシステックなシュミレーション世界を追認するメディア論者たち、さらには「ひとと触れ合うことができない」と嘆きつづける「エバンゲリオン」の登場人物まで、いたるところに同じ不可能製の言説が、ときには通俗的に、時には高尚に、しかしいつも同じように暗いまなざしで徘徊していると思うのは筆者だけだろうか。
そして、おそらくそれと相関的であるのだろうが、クロソウスキーが「生きた貨幣」を書いてから30年を経た現在、社会のほうは本書で「産業的奴隷」とよばれているものをいっそう高度に発達させ、スターやアイドルだけでなく、街の誰もが身体的魅力を売買し、同時に売買されるものとしての身体的魅力を追求するようになってきたのではないか。産業資本主義と呼ばれるものが、手工業的な世界から身体を解放し、身体をすでにある種のシュミラークルにしたとしたら、現代の高度資本主義と呼ばれるものは、身体のシュミラークル化をいっそう過酷に押し進め、身体すべてを貨幣に従属させようとしているのではないか。逆に言えば身体は、ブランドやステータスやモードによって記号化され、本来の意味での情欲から切り離されて、「死んだ貨幣」として過酷な流通過程に投げ出されているのではないか。そして誰もがそのことを漠然と感じているがゆえに「愛」や「癒し」を求める言説が、逆説的に蔓延しはじめているのではないか。身体はほとんど叫びのようにして、真のコミュニケーションを求めているのではないか。
それに対してクロソウスキーは言うだろう。あなたが求めているものは、あなたのなかにすでにある。あなたは「生きた貨幣」になればいい。つまり、貨幣に換算される身体を棄て、情欲そのものであるような、無形の欲動が波立ち騒ぐ身体として、コミュニケーションの回路に入りさえすればいいと。そうすれば愛や情欲はたちどころに交換可能なものとなり、あなたは愛と情欲が自由に流通する世界に生きることができるだろうと。
兼子正勝 「生きた貨幣」解説より転載
|
>
- Yahoo!サービス
>
- Yahoo!ブログ
>
- 練習用