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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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早起きした!

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 午前4時に起きた。なんか爺になると時々目が覚めるのが早くなる。不安定で眠い時は午前10時ごろまで寝ていたり、早いときは3時、4時に起きたりといい加減で気ままな暮らしだ。現在の外気温は14度。外は肌寒いと思うが室温は22度で長袖のシャツにラムウールのセーターで快適だ。熱いコーヒーを落としてカフェオレを作って僕の朝が始まる。今朝はコロンビアのスプレモ ロマーナという最上級グレードのCOEを落としている。こういうレベルの豆を簡単に買えるのは札幌の早川コーヒー以外には多分ないだろうと思う。

 特別にしないといけない事は、1ヶ月に1回、マダムの運転手で東京都の太田市場に早朝最高級グレードのお花を買い付けにいく運転手をすること。往復220キロを4時間で走るだけ。あとは自分勝手に生きている。それでも今月はAUDIのエアバッグのリコール予約が入っていて、助手席のタカタ製のエアバックリコールを16日に沼津AUDIに入れた。車検を通して快適に走る3万や5万はまだ乗るだろうと思う。少しやれてきた2世代ぐらい前の欧州車が僕には似合っていると思うから、そういうのをピックアップして今後も乗るだろう。クワトロポルテ,A8-12,シューティングブレーク、カイエンあたりが現実的で使いやすいかなあと思う。修理に時間がかかりすぎるのは田舎では辛いし、、。
 引退してから少し 上手になったと自覚しているものは
1料理 2洗濯 3読書 ぐらいしかない。労働する才能がゼロだから(つまり怠け者だから)、あれこれ難しいことをするのは面倒だ。でも人が労働しているのを見るのは凄く好きだから、興味本位でいろいろネットで同年代の暮らしぶりを見る。
で一番最近はまっているのは、昨日書いている自動車を自分で修理するまーさんの動画と、農業をするハーレーおじさんだ。
ハーレーおじさんは、毎日更新するし、とにかく重機(クレーン)や耕耘機という機械農業をマジにやっているのでダイナミックで面白い。こちゃこちゃチマチマしているのは性に合わないのね。やるならドーンというのが好き。人生短いものね。機械農業って結構ギャンブルで楽しそうだねと思うな。アメリカ的だし、、、。

 僕は農家経験はゼロだし、自分でしたいとは思わないが、結構好きな人は多い。KEYさんもマジに虫と戦って無農薬有機野菜栽培とかまあ割に合わないことをして暇つぶしをしているが、なんか人は非経済的な事を元々したい種類の種なんじゃないのか?と最近は考えるようになった。相場なんて人に教えても自分の役には全くたたないが、自己満足以上の楽しみって結局は人生にはないんだろうなあとも思うので、金が欲しそうな若い人には少し長い目で見て必要な具体的なアドバイスを書くようにしている。それでマジになる人ならん人、いろいろで楽しいな。

 実行すれば即座とは言わんがそのうち効果が出るのは(僕程度の凡庸な才能なら一般的には10年ぐらいか)僕やベトナムさんが実証済みだから、仮に出来ないとすれば方法論のせいではなく、当人の実行力の不足あるいは能力の欠如という以外説明のしようがない。まあアホでないとこういう方法は選ばんだろうなあと思うが、単なるアホでは金持ちにはなれんので、そのアホの程度が異常なレベルという必要はあるのかもしれない。とにかく頭が少し切れること、実行力があること、これに尽きるな。

 相場で何億か儲けて、豪邸建てて高い車に乗って美女の妾を囲って酒池肉林ぐらいは最低でも出来ないと、こんなかったるいグラフを沢山書いたり場帳を書いたりする相場師人生なんて出来っこないだろうと思うから、まあ僕は自分の暮らしを普通にこうやってつらつら書いているわけだ。で実際にやってみて、少し余分な金が出来ても大して見た目ほどは人生は面白くもないし、まあ人様の言うことを聞いて粛々とお仕事をしてお給料を頂くというような羊の暮らしは僕には根っから無理なので、自由に好きな事をして、好きな事を考えて、なるべくなら手抜きで美味しい生活がしたいからラクチンでお気楽な暇つぶしには良いだろうなと思うだけである。もう40歳以降のこの23年は人生のおまけのようなものだが、いつの間にかおまけの時間のほうが長くなってしまったなと思う。これも予定外のことではある。
 それにしても日本の金融株は実に安い。まさにバーゲン価格だがずっとこのところ人気がないのである。
みずほでも野村でも買っておけば数倍になるのは必至だろうと思うが、なかなかギューンとは上がらない。あの駄目駄目なソニーでも4年ほどで5−6倍に化けたのだから、金融が化けるのは時間の問題だと思うのだが、まだ動き出さないのねえ、、。きっとお疲れでねむねむなんだろうなあ。(爆)だからしかた無く、野村だけ今月は5回ぐらいクルクルしている。押し目買いすりゃ100%利食いだね。今日も買うかな。

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8604 野村

cafe irodori なう

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2年ぶりの いろどり 満席です!
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アップルパイ、チーズタルト
ケーキとコーヒーで1400円の客単価、銀座並みだか、とても美味しい!
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針金アート  http://www.irodori-nitta.com/

相変わらず、オーナーは親切でカッコイイ!ジャグアーやマセラティーの少し古いのに美人を乗せて行きたいなあと思う店だな。
伊豆の仁田に来たらぜひどうぞ。週末は混んで入れないことも多いようだが、、、。

奢侈の資本主義的意義

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ナンバーが杉並なのは息子の会社の子会社名義の車だから。1188は僕の好きなナンバーでこの20年こればかり。
audi a6  4.2は珍しいがパワフルで扱い安くコイツは使い勝手が実に楽だ340馬力もある。

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どんぐりが一杯。これを食べた豚や熊が旨い肉になるの


 

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ダイアランドは秋の気配


まーさんの動画というyou-tubeの「自動車自分で修理動画」にハマっている。
同い年ほどの車いじり好きのおっさんが20年落ちの12万円で中古のBMW320を買って、いろいろ古くなった部品や不都合を自分で道具や部品をネットで調べて買ってなんとか修理するというおもしろ動画だ。
 DIYの自動車版ということで、ガレージにオートジャッキを買ったり、エンジン、オイル、水回り、サスペンションなどを新品に交換してピカピカに仕上げていく物語なんだが、これは考えてみると安い12万の車に車両価格の数倍、数十倍の新しいパーツを取り変えて、1年以上もの時間をかけて新車に近い状態で完璧な車にしたいという見果てぬ男の願望であるという点で非経済的であることこの上ないので、その分が凄く面白い物語である。大きな物語が終わってしまった以上は、われわれは果てしなき日常(いまここ)の幸福に生きるしか術が無い。   
 交換不要のATFをわざわざ交換して汚れが凄いのを感心してみたり(交換して却って不調になる場合も多いのだが)、綺麗好き、掃除好き、修理好きの性格が自由時間を常に何かに交換、更新していたいというある種の病気であるとさえ言える。そんな時間があるのなら、貴重な休日をBMWで快適にドライブ旅行でもすればいいじゃないか?と思うのだが、それよりも車を油まみれになって弄っていること自体が好きなのだ。これは物の消費では満足できず、事の消費でしか満たされない、つまり新車を買うことでは買えない苦労をわざわざ買うという奢侈の新形態であり、無論豊かな人にしかできない21世紀的な奢侈の形態なのである。これを文化(サブカル文化)と呼ばずしてなんと呼ぼうか?どきどきしながら乗るのが楽しいのである。まあごくわずかなわかる人しか分からない趣味なんだが、、、。(爆)
 それでもドイツ車はまだマシなほうで、これがイギリス車やイタリア車だったら、その苦労とコストと愉しみ(=無論苦しみのほうが大きいのは言うまでも無いが、、)は数倍で、古いジャグアー1台をお守りするというのは妾を囲うより金がかかるのは経験済みだ。それほど12発のW6は手間、暇、金がむちゃくちゃかかって楽しい。無論その1台が工場にいる時間は少なくても年間で5割、多いと7割だから、普通に使用しても2−3台は他のマトモに走る車が別にないと大猫は所有できない。つまり普通の人では絶対に所有するのは無理なのである。200万円の店頭価格のW6をまともに脚で使うには最低でも2000万円の現金を容易して遊ぶべきであり、それなら新車の壊れにくい保証付きのジャググアーのほうが安くて楽に決まっている。無論それを知っていて、古いW6のに乗るわけだ。たった3キロしか走らない6Lの大食いに、、。

 20世紀は自動車の時代と言われたが、言葉の通り、自動車はちょうど2000年頃ぐらいから急激に電子化、デジタル化が進んで、機械作動の方法論がデジタル化していった。だから現代の新車はほぼ修理はテスターで不良箇所を特定して部品を丸ごとアセンブリー交換するという方法に変化してしまっている。つまり21世紀は電子部品の時代=コンピューターの時代ということで、自動車もそういう方向につまらなく変化している。
 例えばブレーキにしても高級車からブレーキバイワイアードとなって踏力を電子化してデジタル信号に変えて油圧で制御するという方法に変わってきた。つまりセンサー精度と作動耐久性が部品性能の限界ということでアナログの入り込む余地がほぼない。その分つまらないということになってきた。だから変速機はアイシン製でメルセデスもレクサスもアイシンを使用するのであまり変わらないということになってしまう。無論減速比などは車ごと、メーカーごとに設計者の考え方の差があるものの、以前ほどは修理が必要なことが少なくなってきたということである。2000年以前の車はまだアナログ要素が強かったからその意味では弄りがいがエンジニアにはあったという事でもある。

 日本人は住宅でも車でも耐久財の所有と保有の楽しみかたがど下手でひどく貧しいなあと思う。ヨーロッパの街並を見ればわかる通り、あちらのほうが断然カッコいいのは古い良い物を部分的に残して、必要な部分だけ最新の物を取り入れるという新旧の合体が巧みなのだが、日本は20年ぐらいでぺこぺこになって使い物にならない廉価な素材とチープな作りで数年使えばすぐに買い替え補修しないと駄目な商品ばかりを作り続け売り続ける。これはおそらく戦後の民主化の弊害だが、階級が消えると消費材の質も劣化する。平等の悪弊ということで、本来、商品化されるすべての物は階級的であるはずだ。値とはすなわちそういう質の代位なのであるが、「安い物を好む」という国民的貧乏性(僕は昔からそう呼んでいる)はちょとやそっとでは変化しない。数世代(多分は5世代150年以上、、)かかってもなかなか変化しないのだ。これを外国人から見れば多分国民性と呼ぶのだろうと思う。

 12万円で買った古いBMW320を200万円かけて改造修理して乗るほうが、300万円で新車のプリウスやアクアを乗るより数倍よい趣味でカッコいいと僕は思うが、そういう人は全体の1%もいないだろう。みんな面倒が嫌いなのだ。だから日本人は結果的に面一の同じよう顔をしたのっぺりとしたスタイルに収まってしまう。極端に同質化することが安全であると遺伝子に刷り込まれてしまうのだろう。だから崩れる時は一気に全体がお釈迦になって、1989年からもうかれこれ30年近くも経済も政治も真っ暗が続く。
 資本主義が高度化してくれば、その内部で生きる個体は「いかに差異化を徹底するか」に生き残りの鍵がかかる。その点で差異化の特性で重大要素は「身体的な行動性」であるのは当然だ。つまりどう感じどう動いたかに尽きるだろう。他者や周囲とどう差別化して身体が動いたかという質量をまさに問われる。その質量の癖が差異的であることが鍵だとすれば、普段からの身体的行動を差異化しないといざという場面での行動は差異化されることはないだろう。
 少し古い外車(まあ20年落ちぐらいまで、それより古いと部品そのものが無いので、、)に乗ると良いよと僕は可能性のある若い人には薦めている。それのほうが以後の人生が数倍愉しめるからである。必ず起きる故障や不具合がその都度、自分はどうしたら良いかという最善を常に要求する。つまり自分の頭を使って考えて行動するという身体的行動を要求するからだ。日本全体が空気読み以外ではボヤーっと生きている人が多い中で、そういう頭の使い方こそ個体の生き残りの鍵なのである。それには普段から頭と身体と行動を鍛える以外に上達の方法はない。ジャグアーに散財した金の数十倍が僕には相場で却ってきたなあと思う。

休日は鍋を食べよう!

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推薦本



「おじさん」の罪
  日本に潜む「ズレ」について書いてきた。それは言い換えれば、迷走する「おじさん」と、それに割を食う「若者」の物語だったといえる。今の日本を動かしているのは、結局のところ「おじさん」だからだ。
 この本を「おじさん」と「若者」の世代間対立として読んだ人がいるかもしれない。事実、本書の仮題は『「おじさん」の罪』だった。(その案は新潮社内の「おじさん」たちの反対にあいボツになった)。その「おじさん」は「若者について語るのが大好きだ。僕自身も求められるままに「若者」について語ってきた。
 「物心がついた頃にはバブルも終わっていて、多感な青春時代には平成不況のニュースばかり。今の二十代以下は、日本が元気だった頃を知りません。現在の生活に満足はしているけれど、将来に不安もある。身近な世界の中で仲間と共通の価値観を大切にする感性が広がっています。社会学ではコンサマトリーって言うんですけどね」
 こんな台詞を何十回言ったかわからない。
 確かに僕は、育ってきた時代や環境が近いだけ、「おじさん」に比べれば「若者」の気持ちを代弁することはできるだろう。しかしひとくちに「若者」といっても、この国は広い。二十代に限ってみても、1300万人もの「若者」がこの国にはいる。それでもなお「若者」に共通点はあると思うが、彼らをひとくくりにしてしまうのは暴論だ。
 「若者」を一枚岩で語れないように、「おじさん」もまた多様だ。大企業の中で一生を安泰に過ごしてきた人もいれば、不安定な就労を繰り返しながらその日暮らしをしてきた人もいる。口では大きいことを言うくせに実行力がまるでない人もいれば、決して偉ぶらすにスマートに黙々と仕事をこなす人もいる。
 僕はこの本で何度か「おじさん」という言葉を使ってきたが、それは何も「中年男性」に限った特徴ではない。比較的、中年男性に「おじさん」は多いと思うが、彼らだけが「おじさん」というわけではないし、彼らのすべてが「おじさん」というわけでもない。
 「おじさん」とはいくつかの幸運が重なり、既得権益に仲間入りすることができ、その恩恵を疑うことなく毎日を過ごしている人のことである。
 かつては男性でありさえすれば、多くの人が「おじさん」になることができた。高度成長期やバブル期など、経済成長が続いてた日本では企業社会が積極的に若者たちに対してその門戸を開いていたからである。
 はじめは「おじさん」の世界に理不尽さや違和感を抱いていた若者も、次第にそのルールに順応していく。会社のカラーに染まり、組織の意向を疑わなくなり、「おじさん」の世界の一員になっていく。
 人は、今いる場所を疑わなくなった瞬間に誰もが「おじさん」になる。たまたまラッキーで「おじさん」になれただけかも知れないのに、それを自分の手柄のように思い込む。そして、「おじさん」の外にいる「若者」や「女性」に対して冷たくなっていく。自分の幸運を棚に上げて、不幸な状況にある人を自己責任だと切り捨てる。そういった人を、僕は性別や年齢に関係なく「おじさん」と呼ぶ。
 しかし今、堅牢だと思われた「おじさん」の世界自体が壊れ始めている。業績の悪化に苦しむ老舗企業、誰も解決策を見出せない社会問題にたじろぐ政治家たち。
 もちろんさすがに、「おじさん」も自分たちの世界の崩壊に気づいている。しかし、その解決策がまた「おじさん」流なのだ。強いリーダー、ポエムのような憲法、東京オリンピック、ソーシャルメディア。そういったもので、社会が何も変わることはあり得ない。
 「おじさん」は、「今ここにないもの」に過剰に期待してしまい、「今ここにあるもの」に潜んでいるはずの様々な可能性を見過ごしてしまっているのだ。もし本当にこの社会を変えたいならば、「おじさん」たち自身から変わらなければならない。しかし疑うことを忘れた「おじさん」にそんなことはできない。そうして発生する「おじさん」の世界を巡る負のスパイラルを、本書では描いてきた。
 「おじさん」たちの世界のことを考察することで、なぜ「おじさん」たちが「若者」にも興味をもってくれるのかもわかった。「おじさん」とは自分たちの価値観を疑わない人たちなのである。だけど同時に、自分たちを変えてくれる存在を待っている人たちでもあるのだ。「おじさん」たちは「若者」に倒されるのを、待っているのかもしれない。
 しかも僕も「おじさん」をただ笑っているわけにはいかない。なぜなら僕自身、着実に「おじさん」の仲間入りをしつつあるからだ。今年で29歳になり、いつまでも「若者」と言っていられなくなった。また、自分の発言が社会に伝わる機会が増えたという意味でも、「おじさん」の世界の住人になりつつある。しかし、「おじさん」になるのは、悪いことばかりではない。「おじさん」は「若者」よりもパワーを持っている。そのパワーを適切に使うことができれば、社会はもっといい方向に変わって行く。「おじさん」のふりをしながら、「若者」の気持ちを忘れないでいることもできるはずだ。そして「おじさん」と「若者」が手を組むのはそう難しいことではない。「ズレ」はちょっとした工夫で埋めることが出来る。
         「だから日本はズレでいる」  古市憲寿  より転載
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  熱海、伊豆山山頂は随分冷えてきた。暖かくてセーターの売れ行きが鈍いとベトナムさんが書いていたけれど、僕は昨日ユニクロでラムウールのクルーネックセーターを衝動買いした。すごく奇麗なパープルだ。なんと1900円である。ベトナムさんの食べた豚カツの半額以下である。どうやってこの値段でこの品質のセーターが出来るのだろうか?おじさん恐るべし、柳井はスゴスギルと思うな。
 さて朝夕は10度近くまで下がる日もあるから料理をするには鍋が嬉しい季節だ。春菊、ネギ、豆腐、キノコ、白菜と野菜をたくさん食べよう。普段は忙しくて料理ができない人も、鍋なら簡単に作ることが出来るから時間のある休日はゆっくり材料を買って家族であるいは誰かを呼んで鍋をつつきながら夜を愉しむが良いんじゃないかと思う。
 スーパーや市場に行って、いろいろ季節の良い材料を吟味して買うのは実に楽しい。やってきた季節を味方にして美味しさを身体に取り込むのは健康に一番良いと思う。鍋に合う酒はなんだろう?それを探すのも楽しいに違いない。仕事なんてとっとと切り上げて人生をどんどんと愉快に愉しむのが21世紀の僕たちの本来の暮らしかただと思う。損益計算書を読むよりも、素敵なレシピを読んで料理を作るほうが何倍も値打ちがある時間だと僕は思うな。鍋は人数がいるほうが楽しい料理だ。だから家族や仲間とわいわい取り合いながら食べるのが宜しい。締めは雑炊でもうどんでもお好み次第だ。茹でた中華麺でラーメンにするのも素晴らしい。冬は土鍋を買って週に2回は鍋を作ろう。

 推薦したい鍋の本がある。大庭英子さんの「毎日食べたくなる絶品鍋」成美堂出版1200円だ。64種のレシピがあって、どんなものでも鍋になるという見本だが、基本的なものから作ってみると良いと思う。

 引用しているテキストは 古市憲寿君の「だから日本はズレている」新潮新書だ。このところ自分の息子ぐらいの世代の論客のテキストを5冊ほど読み込んでいる。古市君は上野千鶴子の直弟子だが、なかなか炎上させて面白い。言いたい事を遠慮なく言える若者は素直で良いなと思う。少し生意気なぐらいのほうがその後伸びるから、黙って我慢だけしているのは良くないなと思う。じっと耐えてだけいると鬱病になるよ。
彼の批判する「おじさん」の一人である僕も、彼のような元気な若者は大好きだ。頑張って好きなように自由に生きて欲しいなあと思う。こじんまり纏まるのはいつでもできるからつまらないよ。もっと弾けろ!
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湯河原、吉浜にて


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朝からカレーウドン

 
  H  地域というと、これは余談になってしまうんですが、僕の周りで面白いなと思う人は、宇野さんもそうだけど、何故か北海道出身の人が多いんですよね。大学のときの親友も北海道出身で、彼はヒップホップに強い影響を受けていてブルーハーブも好きだったという奴なんですが、その彼の話を聞いていると、要するに北海道って、日本の中でも一足先に経済的に破綻した場所だったんですよね。つまり、ゼロ年代的というか、ロスジェネ的というか、そういう厳しい社会状況というのを先取りしていた。だからサヴァイブ力がすごく高くて、面白い人が多いのではないかと。

 U    僕は北海道の出身というわけではないんです。生まれたのは母親の実家が当時あった青森県八戸市ですね。北海道には親の転勤と進学で何年か住んでいただけです。個人的なことを話すと、僕は父親が転勤や長期出張の多い人だったので、あんまりひとつの街に長く住んだ経験がないんです。大学から京都に七年間住んだのが最長で、あとはどこも五年程度で引っ越している。だから北海道にはじめて住んだときはカルチャーショックが大きかった。そこはまさに三浦さんの言う「ファスト風土」で郊外型の大型店舗がロードサイドにひたすら並んでいるという、全国のどの郊外とも入れ替え可能な風景が広がっている。北海道は言ってみれば最初からすべてが「郊外」なんです。本州のような、土着的な街並というのは函館の一部にしかなくて、ほかは全部「ファスト風土」なんですよね。僕ははじめて北海道に来たときに、未来都市に来たかのような錯覚すら覚えた。それまで住んでいた長崎の郊外は、まだまだ日本的村落の匂いがして、街並みの貧乏臭いところがたくさん残っていたし、同じクラスに大農家とその従業員の子どもが通っていて、その二人のあいだには封建的な空気が(笑)まだ漂っていた。そういった「匂い」が北海道に来たとたんに全部漂白されていて、愕然とした。
 それに北海道って「外部」がないですよね。本州以南に住んでいると、数百円か千円ぐらいかけて数十分電車に揺られると別の街に行けますよね。東京から横浜に行けるし、大阪から神戸に行ける。でも、札幌や函館でそれは無理なんですよ。特急に乗って数時間かけて移動しないと別の街に行けない。これってものすごく決定的なことで、つまり生活空間のレベルでは「外部」がないということなんです。札幌で言えば、駅前から大通、すすきの間で売っていないものは手に入らないし、それ以外には休日に遊びにも行けない。街の規模こそ大きいけれど、実はとても狭い街なんです。

 H  郊外で生きているということを実感せざるを得ない環境ということですね。

 「希望論」  U 宇野常寛、  H 濱野智史
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 機械的隷属と社会的服従を2つの概念としてわれわれは区別する。隷属とは、人間自らが、上位の統一性による管理と指揮のもとで、人間同士で、あるいは他のもの(動物や道具)とともに合成する機械部品になっている場合に現れる。服従とは、上位の統一性が、動物であろうと機械であろうと、外部のものとなった対象にかかわる主体として人間を構成するときに現れる。このときもはや人間は機械の構成物ではなく、労働者や使用者となり、機械によって利用されるのではなく、機械に服従するのである。こう言っても第二の体制のほうがより人間的であるというのではない。ところで第一の体制は、まずなによりも古代の専制的社会形成に関係するように思われる。この場合人間は主体ではなく、全体を超コード化している機械の部品である。古代帝国をメガマシーンと呼びさらにそれはメタファーではないと断っているルイスマンフィールドは間違っていない。「ルローの古典的な定義に大筋でしたがって、機械を、特定の機能を持ち、人間の制御のもと運動の伝達や作業の遂行のために動く固定的要素の結合とみなすなら、人間からなる機械も立派に一つの機械であった。」確かに、機械の勝利、特に動力機械の勝利を押し進めたのは近代国家と資本主義である。だがこれは、外的に定義しうる技術機械について語っているにすぎないのである。そしてまさに人間は、技術機械によって隷属されるのではなく、服従させられるのである。この意味で、技術の進展とともに近代国家は、だんだん強力になった社会的服従によって機械的隷属を置き換えたように思われる。すでに古代奴隷制や封建農奴は、服従への過程であった。資本主義の「自由な」裸の労働者についていえば、主体化の手続きは、流れを中断させる部分的な結合に入る事さえない点で、最も徹底した服従の表現となっている。事実、資本とは全ての人間を主体として構成する主体化の点として作用しているが、個々では一方の「資本家」は、資本という私的な主体性を形成する言表行為の主体であり、他方の「プロレタリア」は、不変資本を実現する技術機械に服従する言表の主体である。給与という制度はこうして、人間の服従を前代未聞の地点まで進め、特別の残酷さを示すものとなるだろうが、、それにもかかわらず人道主義的な叫びをあげる必要がなくなるわけでもない。いや人間は機械ではない、我々は人間を機械のように扱いはしない、可変資本と不変資本を混同する事は決してしない、、、。
 しかし資本主義が世界的規模での主体化の企てとして出現するとしても、それが脱コード化された流れにたいして公理系を形成することによってなのである。ところで主体化の相関物としての社会的服従は、公理系そのものにおいてよりも、はるかに公理系の実現モデルの中に現れている。主体化の手続きとそれに対応する服従が現れるのは、国民国家または国民的主体性という枠組みの中だからだ。国家をみずからの実現モデルとする公理系そのもののほうは、技術的なものとなった新たな形態のもとで、機械的隷属システムを再建し、発明している。もはや形式的な「統一性」という超越性のもとにではなく、公理系の内在性のもとに置かれているのだから、これは決して帝国機械への回帰なのではない。しかし、これは人間がその構成部品となるような機械の再発明であり、人間はもはや機械に服従した労働者や使用者ではなくなっている。動力機械を技術機械の第二世代とするなら、サイバネティックスとコンピューターは、技術機械の第三世代となり、全面的な隷属の体制を再び作り出している。「人間ー機械というシステム」は、人間と機械の関係を非可逆的かつ非循環的にしていたかっての服従にかわって、この関係を可逆的かつ循環的にしている。ここで人間と機械の関係は、もはや使用や活動という用語によってではなく、互いの内的なコミニュケーションから成立する。資本の有機的組織において可変資本は、企業や工場を主な枠組みとする労働者の服従の体制(人的余剰価値)を決定する。しかし、不変資本の比率がオートメーション化の中でますます増加するとき、新しい隷属体制が見いだされるとともに労働の体制にも変化が起こり、剰余価値は機械状になり、先の枠組みは社会全体に拡大される。
        「捕獲機械」    資本主義と分裂症  ジルドルーズ、フェリックスガタリ                        1994河手書房 刊より転載

 マダムがキンドル欲しい!というのでアマゾンで1クリックで買った。9980円らしい。あまり代金のことは興味が無いものは安いのか高いのかわからない。でも1万円で古典が読み放題という便利さは、こんな田舎の山のてっぺんにすむ引退親父には格別だ。早く買えば良いのにと周囲は言うのだが、仮に買えば便利だからますます外出しなくなるだろう。2週に1回でも山を下りて街というほどではないにしても人が歩いている場所に行くというお籠りでない行動をしないとなんか核戦争の後の地球で最後の残った一人みたいな気がしてくるから、「あんたそれはマッカーシーの読みすぎよ」とマダムに馬鹿にされるのだが、webを通じて交信される東証のホストは現在のところ支障無く板が動いているのだから、人類が死滅しても電気があれば機械は動くし、僕の注文は届いているのだろう。通貨はコンビ二のATMで24時間引き出しが可能で、新生銀行や三菱やみずほに?????万円入れているから、ここが潰れない限り食料やガソリンぐらいは20年分ぐらいは多分買えるんだろう。どうせそんな長生きは出来ないだろうし、、。もっとも通貨が使用不可能になったり物価が大きく変動したりモノが不足して買えないという事が起きる可能性のほうが多分高いのだろうが、、。誰もいなくなった地球で、自分一人だけ残っても意味が無い気がするし、そうなれば食べ物と水の略奪戦は起きないはずで(誰もいないのだから)仕事をしても意味が無い。というか今でも意味は無いし、そもその仕事に意味など最初からないのだ。それよりも洗濯物を干してアイロンがけをするというのが実に僕は好きなのだ。引っ越しの時に2万円で買った日立の中国製の洗濯機をぶんぶん回して下着や布巾を洗う。脱水の音が実に勇ましいから中国製のモーターでも別に問題が無い。グローバル経済の恩恵は消費者にあるのは確実に実感できるし、恩恵の反対側が何かというのは賃金の下落と雇用の喪失というダウンサイドなのだろうが、そもそも個人的な対応をすればよいだけのことで、賃金は貰わなければ宜しいし、雇用は雇われなければ宜しいだけのこと。つまり仕事なんかするなということだろう?事実僕は賃金はゼロだし誰も雇ってくれないが生きている!これでお嫁に行く資質の一つを僕は獲得していると自負しているのだが、果たして還暦手前の減価償却済みのくたびれた男をお嫁にもらってくれる美女がいるだろうか?まだあそこは元気だし、料理も一応200冊ぐらいレシピ本どおりには作れるようになった。持参金が必要ならないでも無い。嫁入り道具は家と車が一応有る。僕が高原の部屋で洗濯をしてそれを干すという行為には、高原の地形の凹凸を視界にいれるという付帯するおまけが必ずついてくる。物干は富士山の方向に平行に配置されているから三島から清水にかけての由比の海岸線が遠くに見える駿河湾を見下ろす動線に愛鷹山から毛無し山系が襞のように連なるなだらかな日本の山並みは、かっての万葉集の世界を彷彿とさせる美しいカーブで、カズオイシグロの「遠い山なみの光」を連想させる。長崎の山なみの風景は覚えていないが、どこかであの既視感、迷宮性、時空の歪み、円環性と連なるドルーズのミルプラトーのテキストにたどり着く。なぜか薄ぼんやりとして悲しい既視感のイシグロの世界。あの海岸線に打ち上げられた座礁船の悲しいたたずまいは僕たちそのものの未来ではないのか。”Never Let me go"を聴きながら、枕をかかえて一人キャシーがスローバラードでダンスを踊る。『私を離さないで、、』
 図書館という場所は、田舎の若いお母さんにとってのデスニーランドだ。ベビーカーを引いて学齢前の子供を連れてお弁当持参でやってくる。ちょっと正視するのがはばかられるほどの体液の匂いと出産の痛手と未来への希望に満ちて少し崩れはじめた彼女たちの体型は上野千鶴子の描くジェンダーの世界とはひどく遠い。あんな痛い眼にあって、いや痛い思いをしたからこそ女子は現実を掴み取る。男は根が無いから、いつもフワフワしているのだろう。それを架橋するいかなる言葉も僕に無いのなら、彼女たちが拾うものを投げるという行為(宝石であれお金であれ)以外、男が出来ることに何があるというのだろう?原始時代から男は羽飾りを贈った。遺伝子を残すという唯一の目的を脳は快楽のおまけをつけて記憶していたのだろう。黄色の羽がダメなら赤い羽を、赤い羽がダメなら青い羽を、それでもダメなら3色のアレンジメントを、、欲望はそうやて拡大し、やがて資本主義となった。彼女たちを崇拝するのは、彼女たちが子供を産んだという事実とこれから産むかもしれないという可能性について僕の蛇の原始脳が匂いをかぎ付けて勝手に感じ反応するということである。子供を産むという行為を永久に封印された男という種族はだから悲しい既視感の滅び行く人類の過去である。どんな名演説をケネディーがしても、撃ち殺された彼の隣のジャクリーンが未来をこしらえた事実は残る。The water flows on,but the rever remains.   娘はそう言った。男は水で女は河なのだ。人間の風景は女が残したものである。

            2014年 9月 記

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