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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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雨の日の猫は眠いの、、。ずっと毛布で饅頭になっている。



礼について

 大学院では後期に家族論を講じている。
 先週は小津安二郎に関連して「家族とは何か?」という本質的な問いをめぐって論じた。
 だいぶ前に『ミーツ リージョナル』に書いた家族論が『村上春樹にご用心』に再録された。その中に私はこう書いている。

 親族が集まったとき、「ある人」がいないことに欠落感を覚える人と、その人がいないことを特に気にとめない人がいる。「その人がいない」ことを「欠落」として感じる人間、それがその人の「家族」である。
 その欠落感の存否は法律上の親族や血縁の有無とは関係がない。家族とは誰かの不在を悲しみのうちに回想する人々を結びつける制度である。

 「空虚」を中心にして人間の運命は形成される。邪悪さも善良さも不幸も幸福も、その起源は「空虚」のうちにある。
「空虚」は因習的な意味では「存在しない」ものであるから、あらゆる人間的事象に起源は存在しない、というより「起源の不在」を起源とすることが可能だということを知った霊長類の一部が人類になったという言い方のほうがより厳密であろう。
 レヴィナス老師が教えられるように、欲望は欲望の充足が欲望をさらに亢進させるように構造化されている。
 動物には欲求はあるが欲望はない。欲望がコミュニケーションを起動する。コミュニケーションには3つのレベルがあると看破したのはレヴィー ストロースである。
 すなわち、「女の交換」(親族形成)、「記号の交換」(言語)、「財貨、サービスの交換」(経済活動)である。
 私はこれに副次的なコミュニケーションレベルとして二つのものを書き加えてたいと思う。一つは葬礼であり、一つは動物との共生である。
 葬礼というのは「正しい服喪儀礼を行えば死者は鎮魂されるが、誤った服喪葬礼を行えば死者は甦って災いを為す」という信憑のことである。
 この信憑を保たない社会集団は存在しない。この場合「服喪葬礼」を一つの記号とみなせば、記号の違いに応じて、そのつど死者は別種の反応を示すということである。これをコミュニケーションと言わずして何と言うべきか。死者ともコミュニケーションすることができる。これが人間が動物と分岐した決定的なポイント オブ ノーリターンだと私は考えている。「存在しない」死者ともコミュニケーションできるのであれば、異類とのコミュニケーションなどはるかにたやすいことである。人間以外の霊長類は異種の生物を家畜として共生することをしない。人間がそれを行うことができるのは、動物の鳴き声や表情を人間の声や表情に準じるものとして記号的に分節できるというということである。おそらく人間の特徴は「他者」(そこには死者も異類も含まれる)と癒合的なしかたで共ー身体を形成することができるという点にある。
 生物としてきわめて危弱な人類が地上最強の種として君臨することになったのはこの「共ー身体形成能力」によると私は考えている。
 それゆえ、古伝のすべての「人間的教養」はこの能力の涵養に焦点化してきた。例えば、儒家にいう「六芸」とは、礼、楽、射、御、書、数であるが、儒における「礼」とは本来的に葬礼のことである。
死者とのコミュニケーションのために践むべき作法とは何か。それは老師の言葉を借りれば「存在するとは別の仕方で」生者にかかわり来るものといかに応接するかという問いに向き合うことである。
「楽」とは音楽のことである。音楽とは端的に言えば「もう聞こえなくなった音がまだ聞こえ」、「まだ聞こえない音がもう聞こえる」というかたちで「現存在」の「現」の桎梏を超え出ることである。
 これもまた「存在するとは別の仕方で」私たちに触れてくるものとのかかわり方を教えている。
「射」は弓であり、「御」は馬術のことであるから、射、御とはすなわち本邦でいう「弓馬の道」すなわち武術のことである。なぜ武術が「刀槍の道」と呼ばれず「弓馬の道」と呼ばれるようになったのかについては『複素的身体性論』に詳らかにしたので、ここでは繰り替えさない。
「書、数」はいわゆる「読み書き算盤」のことであり、「言語記号の交換」と「財貨、サービスの交換」という三つのコミュニケーションレベルのうちの二つを指している。(第一のコミュニケーションである女の交換=親族形成」は「礼」そのものの前提をなしている)
 ご覧のとおり、孔子が人として学ぶべきこととした「六芸」のうち、現在学校教育で教えられているのは楽と書と数だけである。武術はまだかろうじて形骸が残っているが、その命は旦夕に迫っている。最も重要な人間的教養である「礼」はもはや一部の葬礼のうちに名残をどどめるばかりである。
 人間は「種の起源」において人間を人間化した根本要件である「共ー身体生成のためのコミュニケーション能力」そのものを失いつつある。
 家族というのは、起源的には「礼」を学ぶために集団であると私は考えている。「そこにいない人」の不在を痛切に感知する訓練が「礼」の基礎となるからである。それは死者の弔いというかたちをとることもあるし、やがて家族のうちの誰かから生まれてくる子どもへの期待というかたちをとることもある。
「もういない人」の不在と「まだいない人」の不在をともに欠如として感知する人々が「家族」を構成する。それが解体しつつある。
 そういえば、上野千鶴子の『おひとり様の老後』という本には、「家族の不在(悼むべき先祖の不在、来るべき子孫の不在)を少しも痛みとして感知しない人間」になるための方法がことこまかに書かれていた。だが、「もう存在しない他者」「まだ存在しない他者」の現時的な不在を「欠如」として感じとることは人間が種として生き延びるための不可欠の能力である。
 この能力の重要性を過小評価すべきではないと私は思う。
 あるいは上野はこの能力を選択的に攻撃することによって、人類の「種としての消滅」を目指しているのかもしれない。たしかに地質学的スケールで考えれば、別に人類が「地上最強の種」として未来永劫地上に君臨すべきであるということはない。
 ゴキブリとかウイルスとかが地上に君臨する時代が到来してもよろしいではないかと上野が考えているとしたら(どういう人間的理由からそう考えるに至ったかは知らないけれど)、それもまた一つの人間的見識としなければならない。
  内田 樹  『こんな日本でよかったね』より転載
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 内田さんの本は実に面白い事が上記のように家族と礼について詳しくわかりやすく書いてある。こういう本はたるんだ頭にキックを入れるために、毎月1回ぐらいは300ページぐらいザアーっと通勤電車の中なんかで読んだら、ダラケタ前頭葉や海馬の良い刺激になって、ボケが遅くなるんじゃないかと期待感満載だ。

 親のいない子どもはいない。(生死は別として親はだれにでもいる)しかし子供がいない人は現在実に多い。つまり現代日本は先祖がいても子孫がいない=未来が無い「片肺飛行」の飛行機みたいなもので未来が無いからバランスが悪いから時間の問題でいつかは墜落するかもしれない。過去と未来をつなぐ現在形の家族が解体しつつあるからだ。こういう事を真正面から考えて問題点を書いたりすると、ジェンダーやLGBTに抵触して袋だたきに合うリスクがあるので、誰も書かない。つまり書くということに勇気がないし、リーマンが書くと新潮45のように容易に頸が飛ぶ。(爆)安い頸だなと思うが、リーマンなんてそんな程度の安い頸なんだからいくら飛んでも誰も困らない。(本人以外は、、、)
 このまま行くと、80年後は(西暦2100年ごろは)厚生省の中位推計で5200万人ぐらいに人口減が起きる。ちょうど日露戦争の時ぐらいらしいから、まあサイズ的にはスカスカ感が少しは出るんだろうが、悲観するほどの事もないだろう。問題は残った家族の中身の問題であると思う。制度的部分は別として、生殖が起きない家族を作るという遺伝的日常がスムーズに成立しない世界はマズいと思う。資本主義が制度的に失敗して、一夫一婦制という西欧型婚姻制度が今後仮に破綻したとするなら、アジア的乱婚制度とか重婚制度を復活させればバランスが回復するのかもしれない。壮大な実験となるが、アラブ世界では妻が4人まで居て良いという決まりなのだから、別段乱婚で夫が4人いても不思議は無いと思う。

 自己をどう時間的継続の中で認識するのか?近代西欧式の個人という視点の位置だけでなく、先祖の過去、現在時の家族、子孫の未来という流れの中の自己と家族という視線に立つと、見えるものや考える対象はぐっとワイドスパンにならざるを得ない。
構造主義の先達、ストロースの指摘するところにコミュニケーションの3様態
 =コミュニケーションには3つのレベルがあると看破したのはレヴィー ストロースである。
 すなわち、「女の交換」(親族形成)、「記号の交換」(言語)、「財貨、サービスの交換」(経済活   動)である。=にほとんどの現代人は失敗し始めている。

女の交換に失敗して家族が成立しない、記号の交換に失敗して鬱病になる、財貨やサービスの交換に失敗して貧乏になるという三つの失敗を繰り返して僕の周囲の現代人の大半は良い事があまりないように見える。なんでちゃんと基礎的なことを手作りでコツコツとひとつづつ積み上げていかないのだろうか?と不思議な気持ちがする。10世紀も、15世紀も前から、人類はそういうことをコツコツと地道にやってきたはずなのに、、。きっと受験勉強のし過ぎで頭が悪い人が増え過ぎたのだろうか?(爆)

KEYさんへ

 大学院の演習が始まる。後期のお題は「家族論」。ところが初回の発表の渡辺さんは前期に発表できなかったので、後期の第一回に教育論の仕上げとして「寺子屋論」をお願いしていたのを私はすっかり忘れていたのである。(なんでも忘れる人間である。)
 まあ、子供の教育について論じるわけであるから、家族論と言えなくもない。
 近代日本が世界でも例外的に「子供をかわいがる社会」であったことは、幕末に日本に来た西欧の人々が仰天した記録がたくさん残っていることから知られている。これほど子どもが幸福そうに暮らしている社会を他に知らないとさえ書かれている。
 寺子屋についても記録はたくさん残っているが、絵を見ると、今の学校であれば「学級崩壊」的な状況である。子どもたちはてんでに好きなことをしている(これは寺子屋の授業が全級一斉ではなく、子どもひとりひとりに与えられた課題が違うせいである。手習いなんかしないでそこいらへんを走り回ったり、まわりの子どもの邪魔をしたり、障子を蹴破ったり、上がり框から転げ落ちたりしている子どももいる。もちろんおおかたの子どもはまじめに勉強しているんだけれども。
 総じて江戸時代までの日本人は子どもに甘かったようである。
 理由の一つとして幼児死亡率が高かったことにある。江戸時代の平均余命は男子が20歳、女子が28歳である。これほど低いのは、生まれた子どもの7割が乳児幼児のうちに死んだからである。
 だから、元気で遊んでいる子どもというのは、「よくぞここまで育ってくれた」という感情と同時に「この子は明日も生きているだろうか?」という不安とを同時に親にもたらす存在であったのである。
 そういうときには、あまり子どもをびしびし鍛えるとか、そういう気分にはならぬものである。
 もちろん西欧だって幼児死亡率は日本と似たようなものであるから、それだけでは日本人が例外的に子どもを甘やかした理由にはならない。
 だが、少なくとも現代日本の親たちの口から、わが子について「生きてくれさえすればそれでいい」というところまでラディカルな愛情表現を聴くことはまれである。
 それだけ子どもを取りまく衛生環境が向上したからである。
 子どもが「生物学的に生き残ることが当たり前」になると、今度は「どのような付加価値をつけて、子どもを社会に生き残らせるか」ということが親にとって切実な問題になる。
 今の日本では、「子どもをどうやって生き残らせるか」という問は「子どもにどうやって金を稼がせるか」という問いに置き換えられる。「生き延びる力」と「金を稼ぐ力」は私たちの社会ではイコールに置かれているからである。
 繰り返しここでも書いていることだが、これは人類史の中ではごく例外的なことである。人類史の99%において、「生き延びる力」とは文字通り「生き延びる力」のことであった。細菌や飢餓や肉食獣や敵対部族の襲来や同胞からの嫉妬をどうやって「生き延びるか」ということが最優先の人間的課題であり、そのために必要な資質を子どもたちは最優先で開発させられたのである。
 環境適応性が高いのでどこでも寝られ、なんでも食べられる、危機感知能力が高いので危ない目に遭わない、同胞との共感力が高いので誰とでも友達になれる、、、、そういう能力が「生き延びる」ためには一番有用である。
 けれども、これらの能力は「金を稼ぐ」という抽象的な作業には直結しない。
 だから、現代日本のような極度に安全な社会においては、「生物が生き残るために最優先に開発すべき資質」の開発は顧みられることなく、ごく例外的な歴史的条件下でのみ有意である「金を稼ぐ能力」の開発に教育資源のほとんどが投じられることになったのである。
 私はこのような歪みは日本社会が人類史上例外的な安全社会になったことの「コスト」として甘受せねばならないと考えている。
 つねに死の危険に脅かされているために「生物学的に強い子ども」にならなければならない社会と、とりあえず生き死にの心配がないので「生物学的に弱い子ども」でいても平気な社会のどちらが子どもにとって幸福かという問いに答えるのに逡巡する親はいないであろう。
 でも、毎日の新聞を読んでいると、ローンを払えないせいで一家心中したり、進路のことで意見が違ったので親を殺したり、生活態度が怠惰なので子どもを殺したり、いじめを苦にして自殺する事件が起きている。
 ローンとか生活態度とか進路とかいじめとかいうのは、すべて社会関係の中で起きている「記号」レベルの出来事であり、生物学的、生理学的な人間存在にはほとんど触れることがない。
 でも、そのような記号レベルの出来事で現に毎日のように人が死ぬ。
 社会が安全になったせいで、命の重さについては真剣に考慮する必要がなくなった社会では、逆に命が貨幣と同じように記号的に使われる。社会はあまりに安全になりすぎると却って危険になる。
 そういうこともあるのかもしれない。
 「生きていてくれさえすればいい」というのが、親が子どもに対するときのもっとも根源的な構えだということを、日本人はもう一度思い出した方がいいのではないか。
寺子屋の話を聴きながら、そんなことを考えた。
    「こんな日本でよかったね」 内田 樹  より転載
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 KEYさんの娘さんの心が折れたと書いてあった。実に心配である。僕は教師ではないが、良い教師がこういう人だということは良くわかる。そのせいで金が容易に出来たから、、。引用は内田樹さんのエッセイだ。文春文庫で629円。ぜひすぐに買って何度もよく読んでほしい。親の期待と子どもの人生は同じベクトルになるとは限らない。むしろ逆になることが普通だと僕は思う。我が家も僕も教育に失敗したという自覚があるが、長男はおよそ17歳ぐらいから15年ほど続く青年期の危機をなんとか自分とパートナーと自分の子どもの力でかいくぐって生き延びている。子どもは親を必ず見て育つから、心の折れた責任は無論我々の生き方の中に答えの一つがあるんだろうと強く思う。

 >「生きていてくれさえすればいい」というのが、親が子どもに対するときのもっとも根源的な構えだということを、日本人はもう一度思い出した方がいいのではないか。

おせっかいを言うと他のことはほどんどどうでも良いんじゃないかと僕は思う。つまらない親の勝手な尺度で子どもを計らないほうが良いと思う。例えば金儲けなんてどうでも宜しい。必要だと思えば元気なら自分でなんとかするもんだ。なけりゃ、好きなだけくれてやれば宜しいと思うな。


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今夜は、牛肉とピーマンの中華炒め物
ニンニクと唐辛子を胡麻油で熱して、ピーマンを投入、酢大2、醤油大2で炒めるだけ。
肉(肩ロース200グラム厚切り)は下味を付けて焦げ目が出るぐらいに焼いておく。ヴォリューム満点で御飯がすごくたくさん進むと思う。

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視界10メートル、ホワイトアウト

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豪雨と雷 52ミリ

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湘南も飛ばせば40分  辻堂、茅ヶ崎、大磯、逗子、美味しいお店もたくさんある。

 
 ここ数年で、なんちゃって田舎暮らしとか都市と田舎の二拠点暮らしをする人たちがどんどん増えているようだ。初老の人がリゾートで早めに隠居する(KEYさんやハルトモさんのような健康な50代が増えている)僕のような老年初期のなんちゃって田舎暮らしスタイルも増えていて、働いてばかりがお利口な人生でも無いだろう?という割り切った労働価値懐疑派が増えることで都会生活の忙しさにホトホト嫌気がさした人たちが、田舎に別荘を買ったり借りたり、都心に家をもったまま多くの時間を別荘やリゾートで過ごす生活スタイルが増えて来たように思う。7年前のリゾートマンションの定住率は15%ぐらいだったが、現在はそれは35%程度まで急上昇していて、物件のおよそ1/3が定住しているようになった。多分、団塊世代が気がついて少しはお利口になったという事だね。わかっていても出来なかった人が少しできるようになってきたという事だろうと思う。
 こういうサボるのが好きな人が増えるとあまり政府は税金が取れないし、年金支払いが増えるから政府は火の車になってしまう。だから三選した阿部は、年金支給をなんとか70歳まで無理矢理伸ばして死ぬまで働けシフトをすすめようとしているようだが、そんなアホに投票するお馬鹿が未だに55%もいる国って実に笑えるなあと思う。
 熱海、軽井沢、湯沢などバブル時にリゾート法で一気に大規模なリゾートマンションが林立して、それの大半が販売不振で倒産して使用する人がほとんどいない状態が2002年から2005年まで続いていたが、不良債権処理で一気に値下げして「売れる値段で処分する」という銀行方針で初回販売時の建値の1/5,1/10で叩き売られた。100平米以上のプール付き、温泉付き、暖炉付きの15000万の豪華リゾート幽霊物件の大半が捨て値の2000万とかで処分されたのだ。(まあ高級外車1台分である。)一度も入居していないそういうリゾートバブル物件処理が日本全体でほぼ完了したのが2006−2007年の好景気だったと言える。それから更に10年が過ぎ、一時取得者が死ぬかあるいは相続で売って現在は二次あるいは三次取得者が中心に現在利用されるようになっている。これは登記簿を大量に見ると所有関係の変遷が一目瞭然ですぐにわかるからだ。昵懇の不動産屋の社長に上記3地域の100軒ほどの登記簿コピーを閲覧させてもらったから間違いない。一次取得者はそれでも半分はローン(1000万現金、1000万10年ローン)というような買い方が大半で、銀行が優良顧客(主として土地持ちの中小企業経営者)に無理にはめ込んだという売り方だが、10年たって法人のボスが代替わりして息子になって、登記が会社から個人に変わってしばらくして売りに出る。父親の個人保証で法人所有が10年たって、さらに安値で息子に売られ登記が変更されて今度はその個人所有が安値で売りに出る。まあ時間をかけた節税、相続を噛ましたアルバイトというわけだから、適当に回転する安値の玉が市場に出回るという仕組みが出来上がっている。駿河銀行ではないが、担保物件さえ実存すれば低額のツナギ融資は直に実行されるからクルクル回転するという仕組みになっている。それでも二次、三次取得者は、ほぼ全額を現金で一括払いする人が7割以上いるということだから、日本は使用しない金がだぶついて余っているということなんだろう。事実、僕もこの7年間でリゾートマンションを3軒買って1軒売ったがそのすべては現金で支払った。売って入金したものは駿河の融資だった。僕自身は無論1円も金は借りていないのだが、そういう多くの客でリゾート不動産売買はもっているんだろうと思う。外車を1台、買い替えるつもりで物件を買っているのだな。しかも現在売値は建設費の半分以下に下がりきっているのでもうこれ以下にはならないので、飽きれば売れば良いのである。リスクゼロ、使えばお得ときているからなんちゃってノマドリゾート暮らしは当面は極楽寺だともうずっと7年も同じことを書いているだろ?職業、地域、価値観に固定されない生き方、暮らし方=逃走線上の逃げかた、これがスキゾフレスキの上等な外し方なんじゃあないですか?という事である。別段、働かないでずっと逃げていても誰一人困らないのである。都会の集団で群れては生きないというスタイルが少し洗練された人の生き方としてリゾートで増えてくれば住みにくい日本の同質化社会にも奇麗に風穴が開くのかなあ?と僕は期待もしているのだが。さて果たして今後どうなる事やら。(爆)
 ここに来て数年で一気に熱海が活気づいてきたせいか複数の不動産屋が所有物件を売る気がないかという問い合わせが頻繁に増えて来ているということは、市場で玉が薄いから今ならすぐに売れるということなんだろう。実需のある地域での地価上昇が目立ってきたようだが利食いで転がる物件がどんどん増えているのだな。近隣でも新規に立て替えする別荘が今年は急増しているが、そもそももう新規に大型物件を建設するような土地そのものが無いのだから、古い未利用の廃墟のようになった物件を取り壊して新規に建設する以外に方法が無いのである。壊して建てるからコストはその分当然上がる。ここにも中国系、韓国系の大型企業がどんどん進出してきている。建築費はここ5年で50%アップ。土地も2割が上がっている。だから20年落ちの捨て値のリゾートマンションが完売になって払底し、建値は7年前の2倍になってきた。それでも転がるから景気は良いんだろう。労働賃金とは別世界であるが、そもそも労働者には元から救いが無いのは仕方が無いのである。熱海のセブンイレブンの時給は850円。


グローバリズムの不動産利用は熱海でも始まっているということで、頭が固い日本人の多くは置いて行かれると思うなあ。
 都心からのアクセスの利便性、海と山の風光明媚な快適性、温暖な気候、温泉と雪のない快適性、つまりはバックボーンに首都圏3000万人の便利な遊びの場所という背景があって成り立つ場所柄という事なのだろうと思う。また静岡空港にチャーター便で杭州から飛んできて、富士山と芦ノ湖をみて、御殿場のアウトレットで買い物をして温泉に入って帰るという団体中国旅行者のバスがなんと多いことかは、専用ホテルをみているとわかる。そういうホテルは日本人客は一人もいないのである。(宣伝もしないし、そもそも円が使えない。笑)

スキー人気がかつての1/3,1/5に萎んでから、北から南へ、山から海の付近へ移住の中心は大きくシフトしたと思われる。軽井沢と箱根の12月の気温はマイナス5度から10度だが、熱海は2度である。この12−15度の温度差は老人にはすごく大きいといえるし、暖房コスト、住宅コスト、運転の安全性の差異(タイヤ交換の有る無しと雪と路面凍結の危険度)など、総合的に日常生活の利便性比較をすると海岸線から少し登った(100メートルあれば南海トラフの津波が来ても安全ね)湘南から熱海は爺さん婆さんには無論当面は「買い」なんじゃないのかと思う。軽登山できる山もあるし、、。
トルクが太いV8有れば30度の傾斜もラクチンだしさ、、。


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 チェスターにはわかっていた。そのとき彼女を不幸な気持ちにさせていたのは、長く住み慣れた住居を離れて馴れない場に移っていくことのつらさばかりではなく、自分のしゃべり方や見かけや、着古したスーツやダイヤモンドの指輪が、まだ相手の敬意を僅かなりとも受けられる場所をあとにすることのつらさだった。ある階級を離れ、ひとつ下の階級へと降りていくことのつらさだった。そして重ねてつらいのは、それが終わりのない移動であることだった。ペラムのどこかで彼女は、フォーミングデールだがなんだかを卒業した隣人に出会うことだろう。ヘイゼルナッツみたいな大きなダイヤモンドの指輪をつけ、穴だらけの手袋をつけている友人にもであうことだろう。
 玄関で彼女はエレベーター係とドアマンに別れを告げた。チェスターはその後について外に出ながら、キャノピーの下で彼女は自分にさよならを言うだろうと思っていた。そこでまた、彼女がどれほど理想的なテナントであったか褒め称えるつもりだった。(中略)

 なぜそれはしくじったのか?なぜそこには報いがなかったのか?なぜブロンコも、ベストウイック家も、ニーガス夫妻も、7Fの離婚女も、ケイティーシェイも、見知らぬ労働者も、何一つ生み出さなかったのだろう?それはベストウイック家とニーガス夫妻とチェスターとブロンコが、お互いを助け合えなかったせいだろうか。あるいは年老いたメイドが、鳥たちに餌を与える役を見知らぬ男にわけ与えてやらなかったせいだろうか。ただそれだけのことなのか?
チェスターはそう尋ね、青い空を見上げた。そこに蒸気で回答が書かれているのではないかというように。しかし空が彼に教えるのは、それは冬の終わりの長い一日だったし、もう時刻も遅いから中に入った方がいいということだけだった。
 
「スーパーインテンダント 」  ジョン チーヴァー  村上春樹訳  より転載  
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 およそ半世紀ほど前,高校の現代国語の時間だったと思うが、担当教師に「行間を読め」というようなことを教わったような記憶がある。「テキストに何が書いてあるのか」というのはきちんと文字が読めて(母語として文法を無意識に無視しても音読できて)、その語彙の基本を読み手が正確に理解できていさえすれば、言葉と言葉の順列組み合わせで文章(テキスト)というものは基本的には成立しているのだから、その組み合わせの方法が誤っていない限り誰にでも理解できる答えに大きな差異は生まれない。一方で「行間を読む」という行為とは、「何が書かれていないのか?」ということを読み手が想像することでまさに書かれていない何かが実際に書かれている何かよりも実は本質的に重大な意味を持っていることがままあるという指摘である。暗喩(メタフアー)というのも現代文学においては実に典型的に重大な意味上のアイコンであり、それが暗示する表面化いまだしていない重大なシグナル全体を象徴する何か?ということになるはずで、優れた美しいプロのテキストには、そんなメタフアーが随所に鏤められているからであり、それを探し出すのも読書の楽しみの一つだろうと僕は思う。
 チーヴァーは1950年代の雑誌ニューヨーカーで当たった短編作家であり、同時代の人としてはアーウィンショー、マーク ショアラー、ポール ホーガン、クリストファアー イシャーウッド、アーサー コーバー、サリイ ベンスン、ビクトリア リンカーンなど多数の人たちがいたが、現在は日本で彼らが読まれることはもうほとんどないだろうと思う。一世代という時間とはそういう篩にかける残酷な質の淘汰であるとも言えようか。古い話で恐縮だが、1982年(今から40年ほど前)、早川書房より「ニューヨーカー短編集」という雑誌ニューヨーカーで書かれた短編作家だけをあつめた500ページ弱の2段組みのハードカバー3冊組が出た。定価1500円。当時の初任給が12万円ぐらいの時代だから現在ならきっと3000−4000円はするのだろうと思う。訳は常磐晋平だった。僕が27歳、結婚した翌年で、長男が誕生した齢だからよく覚えている。当時の短編集を書棚から引っ張り出してぱらぱら読んでみても、やはりジョン チーヴァーの「巨大なラジオ」はちゃんと載っているのだから、上記に訳出している村上の「スーパーインテンダント」と比較しても、わかりやすさ、伝わりやすさという意味では特段の進歩が翻訳にはあったのではないのかと僕は思う。その中でも 暗喩「ヘイゼルナッツみたいな大きなダイヤモンドの指輪」というのが実に面白い。ヘイゼルナッツはきっと300カラットぐらいの大きさがあるはずで、ビクトリア女王の戴冠式に使う王冠のダイヤよりも巨大なダイヤモンドをもった女が、家賃の値上げで住めなくなったアパートを引っ越す一場面を管理人の目からみた一日として描写する都会小説の極意という体裁を取っている。
貧富に揺れる人間心理の狭間を写し取る天才的なテキストとして50年以上も生き残ったということだから、現代作家ではちょうどポール オースターが日本では人気だが、そういうポストモダンな文学が好きな人にはうってつけの短編集なのである。
 中産階級から一段下りる経験というのをどう小説化するかという実験的なテキストなのだが、チーヴァーはエッセイで自分でも書いてるように、ニョーヨーカーの原稿料ではスーツをたった1着しか買えないほど貧しかったそうである。だから階級を一つ降りる人たちの気持ちの描写が実にこのようにリアルなのである。ヘイゼルナッツはおろか胡椒1粒大のダイヤモンドだって1カラットならルースで200万円ぐらいは現在する。それを磨いてプリンセスカットに仕立ててプラチナの台に載せると500万円ぐらいで売っているのが資本主義の奢侈の入り口なんだろうと僕は思う。入り口でウロウロしてその先に進む気にももうならない僕としては、その先に進んでへーゼルナッツのような大きなダイヤをした人々の話を読むほうが老後の楽しみとしては向いている気持ちになるのだな。成功潭と失敗潭の両方があるほうが人生を両面から楽しめる。そういう意味で先日書いているマリオ バルガス リョサはその「行ってこい」の往復潭としてノーベル文学賞を取ったのだろうかとも思える。村上春樹に欠けているものとは多分それなんだろうかと僕は思うな。
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