雨の日の猫は眠いの、、。ずっと毛布で饅頭になっている。 礼について
大学院では後期に家族論を講じている。
先週は小津安二郎に関連して「家族とは何か?」という本質的な問いをめぐって論じた。
だいぶ前に『ミーツ リージョナル』に書いた家族論が『村上春樹にご用心』に再録された。その中に私はこう書いている。
親族が集まったとき、「ある人」がいないことに欠落感を覚える人と、その人がいないことを特に気にとめない人がいる。「その人がいない」ことを「欠落」として感じる人間、それがその人の「家族」である。
その欠落感の存否は法律上の親族や血縁の有無とは関係がない。家族とは誰かの不在を悲しみのうちに回想する人々を結びつける制度である。
「空虚」を中心にして人間の運命は形成される。邪悪さも善良さも不幸も幸福も、その起源は「空虚」のうちにある。
「空虚」は因習的な意味では「存在しない」ものであるから、あらゆる人間的事象に起源は存在しない、というより「起源の不在」を起源とすることが可能だということを知った霊長類の一部が人類になったという言い方のほうがより厳密であろう。
レヴィナス老師が教えられるように、欲望は欲望の充足が欲望をさらに亢進させるように構造化されている。
動物には欲求はあるが欲望はない。欲望がコミュニケーションを起動する。コミュニケーションには3つのレベルがあると看破したのはレヴィー ストロースである。
すなわち、「女の交換」(親族形成)、「記号の交換」(言語)、「財貨、サービスの交換」(経済活動)である。
私はこれに副次的なコミュニケーションレベルとして二つのものを書き加えてたいと思う。一つは葬礼であり、一つは動物との共生である。
葬礼というのは「正しい服喪儀礼を行えば死者は鎮魂されるが、誤った服喪葬礼を行えば死者は甦って災いを為す」という信憑のことである。
この信憑を保たない社会集団は存在しない。この場合「服喪葬礼」を一つの記号とみなせば、記号の違いに応じて、そのつど死者は別種の反応を示すということである。これをコミュニケーションと言わずして何と言うべきか。死者ともコミュニケーションすることができる。これが人間が動物と分岐した決定的なポイント オブ ノーリターンだと私は考えている。「存在しない」死者ともコミュニケーションできるのであれば、異類とのコミュニケーションなどはるかにたやすいことである。人間以外の霊長類は異種の生物を家畜として共生することをしない。人間がそれを行うことができるのは、動物の鳴き声や表情を人間の声や表情に準じるものとして記号的に分節できるというということである。おそらく人間の特徴は「他者」(そこには死者も異類も含まれる)と癒合的なしかたで共ー身体を形成することができるという点にある。
生物としてきわめて危弱な人類が地上最強の種として君臨することになったのはこの「共ー身体形成能力」によると私は考えている。
それゆえ、古伝のすべての「人間的教養」はこの能力の涵養に焦点化してきた。例えば、儒家にいう「六芸」とは、礼、楽、射、御、書、数であるが、儒における「礼」とは本来的に葬礼のことである。
死者とのコミュニケーションのために践むべき作法とは何か。それは老師の言葉を借りれば「存在するとは別の仕方で」生者にかかわり来るものといかに応接するかという問いに向き合うことである。
「楽」とは音楽のことである。音楽とは端的に言えば「もう聞こえなくなった音がまだ聞こえ」、「まだ聞こえない音がもう聞こえる」というかたちで「現存在」の「現」の桎梏を超え出ることである。
これもまた「存在するとは別の仕方で」私たちに触れてくるものとのかかわり方を教えている。
「射」は弓であり、「御」は馬術のことであるから、射、御とはすなわち本邦でいう「弓馬の道」すなわち武術のことである。なぜ武術が「刀槍の道」と呼ばれず「弓馬の道」と呼ばれるようになったのかについては『複素的身体性論』に詳らかにしたので、ここでは繰り替えさない。
「書、数」はいわゆる「読み書き算盤」のことであり、「言語記号の交換」と「財貨、サービスの交換」という三つのコミュニケーションレベルのうちの二つを指している。(第一のコミュニケーションである女の交換=親族形成」は「礼」そのものの前提をなしている)
ご覧のとおり、孔子が人として学ぶべきこととした「六芸」のうち、現在学校教育で教えられているのは楽と書と数だけである。武術はまだかろうじて形骸が残っているが、その命は旦夕に迫っている。最も重要な人間的教養である「礼」はもはや一部の葬礼のうちに名残をどどめるばかりである。
人間は「種の起源」において人間を人間化した根本要件である「共ー身体生成のためのコミュニケーション能力」そのものを失いつつある。
家族というのは、起源的には「礼」を学ぶために集団であると私は考えている。「そこにいない人」の不在を痛切に感知する訓練が「礼」の基礎となるからである。それは死者の弔いというかたちをとることもあるし、やがて家族のうちの誰かから生まれてくる子どもへの期待というかたちをとることもある。
「もういない人」の不在と「まだいない人」の不在をともに欠如として感知する人々が「家族」を構成する。それが解体しつつある。
そういえば、上野千鶴子の『おひとり様の老後』という本には、「家族の不在(悼むべき先祖の不在、来るべき子孫の不在)を少しも痛みとして感知しない人間」になるための方法がことこまかに書かれていた。だが、「もう存在しない他者」「まだ存在しない他者」の現時的な不在を「欠如」として感じとることは人間が種として生き延びるための不可欠の能力である。
この能力の重要性を過小評価すべきではないと私は思う。
あるいは上野はこの能力を選択的に攻撃することによって、人類の「種としての消滅」を目指しているのかもしれない。たしかに地質学的スケールで考えれば、別に人類が「地上最強の種」として未来永劫地上に君臨すべきであるということはない。
ゴキブリとかウイルスとかが地上に君臨する時代が到来してもよろしいではないかと上野が考えているとしたら(どういう人間的理由からそう考えるに至ったかは知らないけれど)、それもまた一つの人間的見識としなければならない。
内田 樹 『こんな日本でよかったね』より転載
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内田さんの本は実に面白い事が上記のように家族と礼について詳しくわかりやすく書いてある。こういう本はたるんだ頭にキックを入れるために、毎月1回ぐらいは300ページぐらいザアーっと通勤電車の中なんかで読んだら、ダラケタ前頭葉や海馬の良い刺激になって、ボケが遅くなるんじゃないかと期待感満載だ。
親のいない子どもはいない。(生死は別として親はだれにでもいる)しかし子供がいない人は現在実に多い。つまり現代日本は先祖がいても子孫がいない=未来が無い「片肺飛行」の飛行機みたいなもので未来が無いからバランスが悪いから時間の問題でいつかは墜落するかもしれない。過去と未来をつなぐ現在形の家族が解体しつつあるからだ。こういう事を真正面から考えて問題点を書いたりすると、ジェンダーやLGBTに抵触して袋だたきに合うリスクがあるので、誰も書かない。つまり書くということに勇気がないし、リーマンが書くと新潮45のように容易に頸が飛ぶ。(爆)安い頸だなと思うが、リーマンなんてそんな程度の安い頸なんだからいくら飛んでも誰も困らない。(本人以外は、、、)
このまま行くと、80年後は(西暦2100年ごろは)厚生省の中位推計で5200万人ぐらいに人口減が起きる。ちょうど日露戦争の時ぐらいらしいから、まあサイズ的にはスカスカ感が少しは出るんだろうが、悲観するほどの事もないだろう。問題は残った家族の中身の問題であると思う。制度的部分は別として、生殖が起きない家族を作るという遺伝的日常がスムーズに成立しない世界はマズいと思う。資本主義が制度的に失敗して、一夫一婦制という西欧型婚姻制度が今後仮に破綻したとするなら、アジア的乱婚制度とか重婚制度を復活させればバランスが回復するのかもしれない。壮大な実験となるが、アラブ世界では妻が4人まで居て良いという決まりなのだから、別段乱婚で夫が4人いても不思議は無いと思う。
自己をどう時間的継続の中で認識するのか?近代西欧式の個人という視点の位置だけでなく、先祖の過去、現在時の家族、子孫の未来という流れの中の自己と家族という視線に立つと、見えるものや考える対象はぐっとワイドスパンにならざるを得ない。
構造主義の先達、ストロースの指摘するところにコミュニケーションの3様態
=コミュニケーションには3つのレベルがあると看破したのはレヴィー ストロースである。
すなわち、「女の交換」(親族形成)、「記号の交換」(言語)、「財貨、サービスの交換」(経済活 動)である。=にほとんどの現代人は失敗し始めている。
女の交換に失敗して家族が成立しない、記号の交換に失敗して鬱病になる、財貨やサービスの交換に失敗して貧乏になるという三つの失敗を繰り返して僕の周囲の現代人の大半は良い事があまりないように見える。なんでちゃんと基礎的なことを手作りでコツコツとひとつづつ積み上げていかないのだろうか?と不思議な気持ちがする。10世紀も、15世紀も前から、人類はそういうことをコツコツと地道にやってきたはずなのに、、。きっと受験勉強のし過ぎで頭が悪い人が増え過ぎたのだろうか?(爆)
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