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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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引退爺の希望論

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「引退爺の具体的な幸福ってなんだろう?」まあ僕の見る限り、爺より婆のほうが具体的に幸福感が強いしよく笑いよく遊びよく食べよく飲む。だから結果的に女のほうが大抵は長生きする。我が家だけみても。焼き鳥屋に行って僕はウーロン茶の400円だかマダムは大吟醸3杯飲むと5000円ぐらい、およそ通貨ベースでも10倍遊ぶ。これではいくらやってもかなわない。ハルトモさんのご家族もマダムは200万円の豪華海外旅行だが、亭主は猫と留守番で200円の朝マックでセコいが、そのセコいのを楽しんでいるから良いんじゃないかと思う。実はセコいほうが性に合っていると達観されているんだろう。ナニを食ってもどうせ油と淡白と糖だから死んだら同じではある。でも喉と舌を通過する数秒がえらい異なると僕は思うんだが、、、まあどうでもいいか。
 そのハルトモさんが北海道旅行をするらしい。おせっかいで札幌の「すし善」という寿司屋を推薦しておいた。ここは実に旨い。東京にも店があるが、やはり地元が一番良いだろう。道場六三郎がここの鮨を食って死にたいと言ったほど旨いウニが出る。少し高いがたまには良いだろうと思う。あとは真狩という場所に「マッカリーナ」というイタリーレストランというかオーベルジュがある。ここの野菜料理は僕は日本で一二を争うレベルだと思う。特にアスパラガスは天国の味だ。なかなか予約が取れないかもしれないが、時間があったらわざわざ行くだけの値打ちがある。とても安いし、、。ここの3倍するミッシェルブラスの店(洞爺湖のウインザー洞爺のメインダイニング)より僕はおすすめしたいと思うな。日本の野菜の実力は凄いと思ったお店だった。

 引退する年齢になると、子供は大抵はもう手が離れるし、そろそろ結婚して孫が生まれる家が多いだろうと思う。時間は自由だし、暇を持て余すようになる。小金があって健康ならそれ以上の幸福なんて物理的には無いほど恵まれていると思うが、きっと何らかの不足感が少しあるほうが、人間は謙虚に努力するんだろうと思う。何かに打ち込んで上達する過程というのは経験的な喜びに満ちているから、少し難しいぐらいの事に挑戦するのは宜しいなと思う。
 成功する人というのは着実にひとつづつ現実的な物質的なこと物にする。獲得した物からも学ぶ事が多いから、レベルの高い物、質を追求すれば自分のレベルは否応なく上がらざるを得ない。そういうことを経験的に知っている人は実に豊かな暮らしをしているんじゃないかと思う。住宅だって車だって本だって相場だってみんな同じで「質」とは何かを経験的に感じて受け入れるという事である。質の良い物はそれなりの値段がするし、普通よりは高いものが多いので、少し金が余分に必要だが、その金も酷く苦労が必要なほどじゃあないんだろうと思う。
 
 数日前から小鉄さんという博多在住の同年代の人とカワウソさんという多分僕の息子ぐらいの年代の関西在住の若い人のサイトに日計売買の練習譜を無理矢理書き込んでいる。こういうことを無理矢理するのは失礼なのは承知しているのだが(経験差、資金規模、道具の差、感覚差、技法の差があるので正しく伝わるかどうか怪しい部分があるから、、、)、ある方法論を20年もずっとやっていると人間はどういう方向に変化するか、しないか?ということが明白であると思うからだ。
「使いきれない金など所詮は無駄である、邪魔である」という風に多分変わると思う。金が代理表象になってしまった狂った後期資本主義を快楽的に生きるには、必要はものは「家族と健康と時間」以外には無いんじゃないのか、その時に必要なものは正常な感覚ということで、味ひとつとっても料理を自分で作ると補正される(外食や中食は味覚が歪みやすい)と思う。
手の感覚、指先の感覚、ペン先の感覚という触覚と視覚が差異を生むということである。そのための意味ある反復を昔から修行と呼んだんだろうと僕は思うな。

 「でかいベンツは良いよ。特に5500ccのV8は素晴らしい!」と思ったら金が無いのならまず中古の良い玉を拾ったら良いのである。使ってみないとわからないのが経験ということで金はそのためにある。快適に運転して運悪く事故っても死なない安全とは、これぐらいのサイズと強度が必要ということだ。燃費だのコストだの、死んだら意味がない事を軽自動車に乗る人は忘れている。差異化とはそういう事であると思う。

 クルクル売買に少し上達すると1日数万円になる。月で50や100は慣れれば楽勝だ。特に暴落時は効果的で、リーマンショックの2008年9、10月の2ヶ月だけで僕は空売で6000万取れた。だから嫌ならリーマンなんてしないで良い。好きなものが買えるし好きな事が出来るようになる。どうせ一度きりの人生だ。引退爺は嫌なことを我慢するより好きなことをして楽しく暮らそう!

台風嫌い!


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我が家は3種のカレーを使用する。辛味は
ベトナム産激辛生唐辛子を2本使用
災害時こそ旨いカレーが食いたい。


 日曜日に来た台風24号は静岡県西部で大きな災害になった。中部電力で大きな停電が起きて、一時70万世帯が停電して、10月4日まで復旧が遅れる大災害で浜松の街は大損害だ。特に信号機が止まって、交差点の事故が80件の発生したそうだ。熱海は停電しなかったが、同じことが起きても不思議はない。風が強かったことで、倒木、飛散物、風による断線など大規模停電が起きて復旧は札幌より遅かった。800人で修復したそうだが、断線箇所が多すぎて人が足りない。この間、断水も起きて普通の生活が送れない人が何十万人も発生している。
 1 停電でポンプが動かないからマンションでは断水する。
 2 従って、トイレが使用できない。
 3 停電で、冷蔵庫が駄目で物が腐る。解凍したものを料理するにはカセットコンロがいる。
 4 オール電化のマンションは、ただのゴミ置き場に化す。
 5 停電でエレベーターが動かないので、高層階の人は大変だ。僕は7階でも嫌になる。
   これが30階とかだと買い物して荷物を上げるのも凄く困るだろう。特に老人はつらい。
 6 駐車所の回転パレットや電動シャッターが動かないので車で移動できない。
 7 店舗も停電で冷凍、冷蔵品は廃棄されて買うものがない。コンビニも売っていない。
 8 魚の卸売り問屋でも2日間で5000万円の廃棄が出たそうだ。
 9 工場も操業できない、通勤が出来ない状態になった。電車が動かない。道路も閉鎖。
 

本当に24時間ぐらい停電するだけでもすごく不便で、未開民族のような生活をすることになる。それでも携帯電話用の充電装置やバッテリー、電池、カセットコンロとガスボンベ、懐中電灯とラジオがあると、状況が把握できて、どこに行けば良いか、どれぐらい待てば良いかという事がわかる。ワイファイも駄目だと情報は携帯の端末しかない。基地局がアウトならメクラ同然になる。
まだ地震や津波のように即座に死に直結するのではないからマシではあるものの、不便きわまりない。相場だって通信が可能でないとまるでダルマと同じである。

 やはり200キロ程度、自由にいつでも移動できる(数時間の車移動)状態にしておけば、金だけ少しあれば、どこかのホテルに避難できて、店が開いていれば食事も買い物も出来るし普通に生活できるし、相場も出来るだろう。だから車にPC1台と場帳は絶対に必要だなあと思った。僕は普段は満タンのメルセデスを電気が完全にストップしても動かせる屋内駐車場に泊めている。そこまで自宅から徒歩で4時間ほどだ。(13キロぐらいある。標高差400メートルの登り)ただし、途中の道が通行止めだとお手上げだなあと思う。長いトンネルや橋もあるしなあ、、。

 まだ静岡県の西部だけだから大した問題ではないが、これが大都市、政令指定都市あるいは東京などで起きればパニックで被害はもっと酷いだろうと思う。台風がどこに来るかなど誰にもわからないから逃げるにしてもどこが安全か、事前には予想しにくい。出たとこ勝負しかないのだなあ。
また今週も大きな台風が出来たそうだ。こっちに来ないで全部中国に行ってほしいなあ。今週末は勝沼で葡萄祭りがあるので、みんなでワインを買いに行くことにしてるから逸れて欲しいよね。

併合はいやだね。

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 なんとか月足の更新を終えた。23年前から書いているおよそ1200枚の長いグラフ用紙の大半は、黄ばんで端の所がボロボロで、少し変な力がかかるとすぐに破れてしまうぐらい紙質が劣化してきた。だから巻物状のグラフの束は年を追うごとに重くなる。それで肩が凝って目が悪くなって、ますます低位株投資に向かない体質と状態になっていく。しかもここにきて、株式併合をほとんどの銘柄がやったせいで、取引単位が1000株から100株に減ったと同時に、値が10倍、5倍、2倍とさまざまに変化するものだから、銘柄ごとの強弱感や値位置と企業価値がバラバラとなって、比較感の意味がまったくなくなってしまった。林事務所は、FAIの低位株の定義を値段で400円未満としていたがそれに該当するような株価はもうほとんど皆無の状態で、急遽800円以下に変更したようだが、それでもほとんど無くなってしまった。企業価値を時価総額ベースで考えるということは、値を見るだけではそれが何だかよくわからない。併合以前と以後の価格の連動性を1枚のグラフで見ても継続性がないので、投資対象から除外する以外に方法がない。
こうなると併合後、少なくても数年時間が経過して、月足がある程度うねった状態を見ないと、投資タイミングが適正かどうかを判断できないことになる。つまり今後は10年位は駄目なのである。
 それでは商売にならないから、個別銘柄のうねり取りや鞘取りに進むしか方法がないということになる。当て物売買が不可能になったという事で、感覚と技法重視の売買にならざるを得ないということだろう。

 それでも株価が10倍になったものは、端数を切り捨てて(2105なら210、4566なら456)と以前のグラフに追加して書けば、一応連続性が担保される。ただし、一つが10倍、片方が2倍か5倍だと実に感覚的な違和感になってやりにくいことこの上ない。
3桁が4桁中心に移行してしまうと、かつての低位株の特性のように安値で動かなくなる、もう下がらなくなるという値動きの特性が今後も続くのかが担保できない困った状態になる。業績が悪化して極端に売られた場合でも、かつでは額面50円を割れば止まるという動きが多かったが、これが10倍になったからといって500円で止まるかどうかはやってみないとわからない。500円で止まらずに50円まで下がれば5円と同じで倒産価格である。下がるなら「売有利」ということになるはずで、さてどうかは現在では分からない状態だ。

 まあこんな状態では低位株投資はもう無理だろうと思う。日立の3000円とか富士通の8000円とか太平洋金属の4000円とか実にやりにくいのだ。だから日計ではないが、スイングやリズムのクルクル回転売買を不等分割でやって気分転換をしている。100株単位でやるもの、1000株単位でやるもの(8604、8411)とバラバラだが仕方ない。1日数万円の利食いになるから、何もしないよりはマシで、安月給のリーマンぐらいは取れそうだが玉帳書くのが面倒くさい。3万取るのに13回もクルクルしてりゃ世話がないと思う。

 昨夜は気晴らしに小田原まで走って「鳥ぎん」という焼き鳥屋で腹一杯食べた。マダムは冷酒を飲んでいた。帰りに閉店前の駅ビルでセールのケーキを買ってきた。
今日はブランチは 冷しゃぶの混ぜ蕎麦を作った。タレはネギラー油、豆板醤、酢、胡麻油と出汁。冷やし蕎麦もそろそろ終わりで今度は鍋の季節になるな。
 


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こんな時代だからこそ、老人は若い人の書いた比較文化論でも読んでみよう。



 本書は「希望論」と名付けられている。担当編集者からこのタイトルを提案されたとき、僕は強く反対した。「こんな時代だからあえて希望を」ーーー1978年生まれの僕は、思春期をそんな大合唱の中で過ごし、そしていまも同じ大合唱の中で生きている。
 バブル経済崩壊後の「失われた20年」ーー日本社会は「基本的に」下り坂で、誰もが「あの頃はよかった」「こんなはずじゃなかった」と下を向いて生きている。だからこそ言論はつねに「希望」を語ることを要求、いや強要されてきた。そのこと自体は避けれないことかもしれない。しかし、僕はこの大合唱に参加することは、逆に希望を見失うことになるのではないかと、ずっと思っていた。「希望の話をしよう」、と言わざるを得ないこの空気こそが、亡くしたものの数を数えることしか許されない言論空間を維持している。僕にはそう思えてならなかった。だから「希望論」というこのタイトルは、嫌で嫌で仕方なかった。まるで、「君たちは絶望的な世界で生きている」という前提でものをとらえ、考え、生きることを強いられているようだ。そんな気がしてならなかったからだ。
 だから僕が本書で問いたいのはただひとつだ。それは、果たして現代のこの世界はそこまで「絶望」的なのだろうか、という問いだ。
 こんなことを言うと、たぶん多くの人が眉を顰め、そして反発を覚えるだろう。しかし、僕はこの20年がそもそも「失われた20年」だとは思っていないのだ。もちろん、経済は停滞し、政治は混乱し、目に見えない不安がぼんやりと社会を覆っている。この現実を、僕は否定しない。しかし、単純に考えて僕はあと20年早く生まれていれば良かったとは思えないのだ。
    『希望論」前書きより    宇野常寛  より転載

============================================「リトル ピープルの時代」という評論が面白かったので宇野君の評論をすこしまとめて買って読んでいる。彼は1978年生まれだから40歳だ。僕の息子より4歳ほど年長だから、ちょうど僕にとればほぼ子供と同じ世代、次世代ということなる。だから時代に対する感覚は、僕の息子や娘の感覚に近いのだろうと思うので、少し正面からマジに読んでみようと思った。
 若い人でも僕のサイトでテキストを読んでいる人もいる。30代、20代は比率は凄く低いのだが(30代は6%、20代は2%だ)、相場の成功者というのは必ずこの8%の中から生まれると思う。そうだ、相場とは若い時に始めたものがほとんど成功すると経験から凄く強く思うのだ。だから上達には相当の時間がかかることが大半だから、早く初めて慣れることが重要であると思う。

 日本人の個人所得がピークをつけたのは1996年である。そこから山をずっと下ってきた。貧しくなり、二極化が起きて、一億総中流という神話は崩壊した。だから時代の空気は暗い。だから暗い空気を吹き飛ばすような「希望の話」を聞きたいというニーズが強いのだろう。
 宇野君はWEB上の総合誌「PLANETS」の編集長をしている。不思議なことに、戦後最大の哲学者、吉本隆明を読み込んでいる。いまさらオタクのサブカル好きが面白いなあと僕は思った。

 >「希望の話をしよう」、と言わざるを得ないこの空気こそが、亡くしたものの数を数えることしか許されない言論空間を維持している。

これは本当だろうか?以前から僕個人は、時代がどんなに悪い状態であっても個人と社会が一致するかどうかは別問題なんじゃないのかと常に思ってきたほうだし、悪い事が多く起るからと言って個人が同様に悪い結果になるとは限らず、少なくとも少ないある集合は、上手にそれを跳ね返し肥やしにして太って行くだろうと常に考える思考のタイプなのである。全体のパイが減れば競争が激化するのは避けられないだろうが、そういう時に勝ち残るのはおそらく異種、異族、例外種ということになるのだろうと思う。樹木的なツリー状の構造ではなく、ステム(茎)状の器官なき身体が生き残る、そう考えるタイプなのだ。だから若い世代の人が、古いタイプの訓練法を取り入れるという事だけで、差異化が始まるのだから、それは実に効果的な方法論になるだろうと思う。

 中世が終わって近代資本主義社会に完全に移行するのにおよそ140年を必要としたとアナール派のフェルナンブローデルは指摘する。それは長い17世紀という時代だった。今、後期資本主義が静かに死んで(金利がゼロ、マイナスになって)次の新たな時代がやがて生まれてくるのだろうが、それまではおよそまた140年程度の時間が必要となるだろう。
 1996年に終わりの始まりが始まったとすれば、終わりが終わる140年後は2136年頃になる。今このテキストを読んでいる人はきっと誰一人生き残っていないだろう。そうやって時代が大きく変化していくのだろうと思う。だからこそその変化の途中で大きな価格変動が必ず起きることは間違いないと思う。インフレであれ、デフレであれ価格はうねるのだ。だからチャンスは無限大だねと僕は思う。そう、希望の話なんてしないでも上手に泳げばウハウハなのである。ウハウハなんだから、あえて希望の話なんて僕はしないでも良いだろうと常に思うのだ。ウハウハな人は、社会の中でもほんの一つまみしか常にいないのである。というかほんの一つまみのウハウハのために社会が存在すると考えるほうがフーコーの指摘には近いだろう。そうやって戦争や闘争がずっと起きて来たのだろうと思う。それこそが経済と倫理の考古学であると思う。
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