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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

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 湯河原のガスステーションで車検の見積もり待ち40分ほどかかるということで、対面にあるマクドナルドに入って、200円のマックシェーク桃というのを買って店内のwifiを使用して、mac airで書いている。この店は今回2度目、前回はオイル交換待ちで入ったので、このスタンドで待つ以外には使用したことがないが、ちょうど午前11時30分と昼の前だが、15テーブルにいるのは60歳以上の老人の人が半分、あとは中年男性がサボってコーヒー飲んでるだけで、食べている人はいない。人の事は言えないが、この時間の客単価はコンビニ以下なのかもしれない。
 地方都市にはロクな喫茶店やカフェというものが存在しないのは何故だろう?たまに良さそうなのを見つけてもすぐに潰れてなくなってしまうから、カフェで楽しむという日常的な生活習慣が無いということだろうし、昼間からサボって遊んでいるような逃避の場所=アジールが存在できない掟のようなものがあるのかもしれない。日本人の極端なまでの同質性と同質化圧力というものは都市以上に田舎のほうが圧倒的に強いから、少し外れた事をするとたちまち村八分になって生活できないということが起きるらしい。
 熱海や軽井沢のようにリゾート地は別として「郷に入れば郷に従え」という日本の地方都市の共通ルールは厳然としてあるのかもしれない。僕は自由が一番好きだから、そういう場所では呼吸困難で死んでしまうので、その種のサークルや関係性を無視してルールを守らない、というかルールそのものの存在を認めない。「ハア?俺には無関係で知らんよそんなもん、、」という感じ。労働しなければならない必然性はないのだから、納税だけしていればどこに住もうが俺の勝手だろということで済ましてしまう。縦型の空間使用の住居(フラットというマンションやホテルタイプの空間利用法)は、気楽だしご近所が誰かなんてどうでも良いことで煩わしい思いはしたくない。フラットは管理費を支払うと面倒なことは管理組合と管理人が代行する仕組みだからそのコストは煩わしさの代償だろうと思うので、それが高い場所は総じてサービス内容が良いのは当然である。自宅の管理費を都内の友人に話すと「なんでそんな高いのか?」と驚く人が多いのだが、それがサービスの費用ということで自由のコストだという意識がない人には意味が理解できないのだろう。きっと家に寝に帰るだけの人には無意味なコストというなのかもしれない。
 不動産の売買サイトを見ると、都内で広い敷地で便利な場所で150−200平米のフラットは大体1.5−2.5億ぐらいが中古の相場であるが、竹中や鹿島など大手ゼネコンが作る低層の閑静な高級フラットに住むには世田谷あたりでそんなコストである。他に駐車場が最低3万円ぐらいは別に必要だ。2億のコストを20年で償却したとすれば1年当たり1000万、毎月80万がネットで必要だ。親から相続した人以外では収入が年で5000万ぐらいは最低でもないと無理なはずで、日本もその意味では階級が固定化した社会にどんどん変わってきたのは明らかだろうと思われる。個人の努力ではそう簡単に這い上がることが難しい社会が現実に出来上がりつつ有ると言えるが、不思議なもので、そういう社会が出来て来るとどこかで天変地異が突然起きて、どんでん返しが不思議に起きる。混乱が起きて天地がひっくり返り、安定が崩れ下克上が発生する。
災害、戦争、疫病などいかなる理由であれ100万単位で大規模に人が死ぬことが、社会を結果的に浄化してまた新しい秩序が産まれる。これは多分、人類社会がここまで継続してきた最大の要因だろうと思う。適者生存のルールというのが実はそれなのかもしれない。

秋の収穫

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アケビ
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柚子胡椒を自作した。
超辛青唐辛子にヒマラヤ岩塩

午後から伊東の伊豆いで湯っこ市場という産直の店にお買い物。片道25キロ走る。
いろいろ果物、野菜など6000円ほど買う。秋の味覚、栗、ゆず、青唐辛子、あけび、葡萄、銀杏、牛蒡、金時草などいろいろ。農協の店は実に楽しい。珍しい地場野菜が期間限定で売っているので、行くたびに珍しいものに出会える。瀧口葡萄園の葡萄も最初はここで見つけて下田まで遠征して農園を見つけた。生産者を教えてくれるので楽しいなあと思う。田舎の良さはそういう所だ。

帰り際に伊東港の卸問屋の青木というスーパーで本日の地魚刺身盛り合わせを買う。今夜は刺身定食だな。

 朝夕はめっきりと涼しくなって凌ぎやすい日が続いている。農協の産直の店にいくと、秋ならではのごちそうが並んでいて、思わず手に取ったものはみんな買ってしまう。
農家の人が自分の畑で少量作った野菜や果実を自分で袋につめて名前を出して売っている。近所のスーパーより3割ぐらい安くて朝取ればかりだから、買って冷蔵庫に入れていてもヘタラナイし、味が濃厚なものが多い。椎茸やエリンギ、ヒラタケ、シメジなどキノコ類は特に好きで、御殿場の二岡ハムのベーコンと一緒にリゾットにしたり鍋に入れたりして食べる。多糖類は身体に良いので免疫力が増す。だから新鮮なものを卵などと一緒にたくさん食べるようにしている。身体は食べたものでしか出来ないのだから、はやりきちんとした素材を自分で料理して作るのが良いと思う。熱海には徳田農園という椎茸の原木栽培をしている地元の農家があって、伊豆全体に出荷していて美味しくて安い。家から車で10分の農家に、毎日取れ立ての椎茸を自動販売機で200円で山盛り売っている。形のいびつなものだけを集めてセールにしているのだ。同じ品種でスーパーにも売っているが、目方で見ると農園直売は半値で売っている。だから知ってる人はそれを買って、乾燥させて干し椎茸で食べる。味が凝縮されて上手いのなんの!
KEYさんが畑を借りて自分で無農薬野菜を作っていたり、PON菓子さんが大規模に未耕作地に重機まで入れて大規模に整地開発して畑、田んぼを作っているが、まさに農業は手間、暇がかかって市場経済には向かない値段でしか売れないから、僕はズルいので人が作った美味しい物をわずかのお金で分けてもらうほうが楽だから、テラスのハーブ以外は全部農協や産直に御任せしてしまう。往復50キロ運転すると素晴らしい野菜や果実が手に入る。たった2時間だ。作ればそんな時間では出来っこないのだから。しかも最初は失敗ばかりだろうと思う。
 資本主義社会は、貨幣経済による無限交換の仕組みを世界中でばらまいて、もう限界に達しているとみんながなんとなく気がつき始めている。交換するものが信用できない危険な物だ、交換に値しない価値の無いものだ、どこかが疑わしい危ない物だという疑念を多くの人が疑い始めているのだろう。だから出所がはっきりとしたものが一番信頼できるから地元の物が一番安全で美味しいと感じる人が多くなったということだろう。特に原発事故以後はそういう関心が高まっている。汚染された米、野菜や肉、魚は誰だって食べたくないのだから、汚染源に近い産地のものは誰もが避けるのは仕方が無い。いくら検査したと政府が行っても、その政府自体を大衆は信じないのは当然で、阿部が国会であれだけコロコロと誰もがわかる嘘をついているのを全員が知っているのだから、「安全」なんて政府が言っても信じるのはよほどの無知か阿呆だけだろう。特に特別に値段が安い物は疑ってかかるほうが無難だねと思う。安いには安い理由があって、安くないと買わないからだろう。そういうのは危険が一杯の可能性を疑うほうが普通だと思うな。
 今年の秋はチャンスがあれば日本海の上手い鮨を食べたいなあと思う。食通の間で鮨は「東の次郎、西の弥助」というぐらい小松の弥助は有名だが、残念ながら僕はまだ弥助の鮨は食べたことがない。以前は小松にあったのが金沢に移転したらしいが当主が85歳でそろそろ急がないと食えなくなるんじゃないのか?と心配しているのだ。数寄屋橋 次郎は政治家が使用するので有名になったから座って3万の鮨になったが、弥助はおまかせで今でも8000円ぐらいと馬鹿安らしい。これでは安すぎできっと予約が取れないんだろうなあと思う。若狭湾の冬の締まった魚は最高だろうなと思う。金沢の鮨の洗練のレベルは日本で一二を競うと思うなあ。
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再読した「土の記」、いつもの硬質の文体が嬉しい。

  夜が更けるとともに風洞のなかの津波は退いてゆき、代わりに液体でも個体でもないゲルのような空間を行きつ戻りつしながら、伊佐夫は、今は人生の折々に出会った女たちの黒いスカートの脚を見続ける。女たちは薄い革靴の底を凍らせ、ひそかに骨を軋ませながらそこここに立ちつくしている。戦争で行方不明になった夫を探して旧ソヴィエトの街を歩くソフィアローレンの、黒いスカートの下の足。夫殺しを胸に秘めたシモーヌ シニョレの、同じく黒いスカートの足。昭代の葬式の当日、石かと思うほど固い表情をして漆河原に現れた陽子の喪服の足。三十年前も、その同じ農道を幾度も通ってきた平井の女房の足。つい昨日やって来たどこかの宗教団体の華奢な女の足。陽子を除けば自分はただ眺めていただけだが、どれもがこの世に生きる苦しみを男に告げにくるかのようであったのは、いったいどういうわけか。

  十五時間前、漆河原から八百キロの地でマグニチュード9とも言われる大地震が起った。しかし地球は公転も自転も止めたわけではなく、今日も夜は正確に明け、新しい一日が始まる。もっとも人間のほうはさすがに昨日とはまったく同じではあり得ず、生き残った者はそれぞれ有形無形の異変を身体に刻んで、恐る恐る自分の暮らしに戻ったというのが正確だったかもしれない。
 伊佐夫もまた、心身になにかしら異様な力が漲っているのを感じながら、夜明けとともに犬を連れて茶畑の巡回に出る。滋養強壮剤を飲んでいるわけでもないのに目も耳も冴え冴えとして、見慣れた杉木立の樹皮の凹凸、枝打ちを待っている若い枝の一本一本、枯れ草の下を走る地鼠の足音、伏流水の水音、ケキョ、ケキョと鳴き始めたウグイスの細い声、その声が響くあたりで薄黄色の雄花をたわわに付けた杉の枝、あるいはその枝の葉先で霜が溶け、いまにも落ちようとしている水滴の放つ光などが一つ、また一つくっきりと刻まれる。杉山の斜面を登る足の一歩一歩も、筋肉が一夜にして増強されたかのようで、ふいに自分がイノシシかクマになったかと思う。昨日までの齢相応の鈍い身体はどこへいったものか、いつもの躁とは明らかに違う、鮮やかな静けさに満たされた世界は、あれもこれも無駄なまでにうつくしく、伊佐夫はたびたび恐怖に近い興奮に駆られる。
 否、恐怖というよりは、あまりに大きな呆然自失のあとに差し込んできたわずかな酸素、あるいは日の光への身体の過剰反応だったろう。そしてひと呼吸置くと、あらためて自分や世界のすべての配線が昨日とは違っていることに気づいて驚愕が走る。どれだけの数に上るのか分からない死者たちが、一夜のうちに生き残った者の世界を一気に組み替え、一本の草もただの草ではなく、土も土ではなく、空も空ではない三.五次元の位相が現れたのかもしれない。そして死者たちは、生き残った者の齢や性別や住んでいる土地に関係なく、山のような課題を課しーーーその多くは自省や新たな道の模索や軌道修正といったものだろうーーーそれを背に、生き残った者は為すすべもなく立ち尽くすか、何をすべきなのか分からずにとりあえず忙しく動き回るかだが、伊佐夫はどちらかといえば後者だったわけだ。
                      「土の記」高村薫  より転載

 連休があるといつもと別の本が読みたくなる。この「別」のという副詞は、通常とは異なる気分というだけのことであり、まあいわば気まぐれのようなもので明確な判断基準が別段あるものでもないのだが、あるかなり長い時間的周期をもって、ある一定の傾向をもった好みの作家の文体がやけに懐かしく、食べずにはいられない好みの料理が食べたくなる個人的な欲望のサイクルに似たようなものである。僕のケースでは高村しかり、川上宏美しかり、大江、中上しかりというように、主に硬質で重層的な文体の日本の現代作家が中心であるように思う。一般的には読みづらい口語化しずらい文体とでも言おうか。構造主義が知識界を席巻した1980年代以降は、レビーストロースしかりミッシェルフーコーしかりであり、特にフーコーは生活の技術という言葉でフランスの週刊誌「ル ヌーヴェル オブセルヴァトール」にH ドレイフェスのインタビューに答えて次のように語っている。
 「いま私は性よりも「自己」の技術に関わる問題に大いに関心をもっているということを言っておかねばなりません。、、、性は退屈ですよ。」
「おっしゃるとおりで、性はギリシア人には大問題ではなかったのです。たとえば、ギリシア人が食物と食養生の占める場所について何と言っているか比べてみてください。食物ーーこれはギリシアではいつでもどこでも片時も離れぬ配慮ですが、食物を特別なものと考える時期から、性現象に関心をもつ時期へと進行するきわめてゆっくりとした動きを観察してみることは、ひじょうにおもしろいと思います。キリスト教の初期には、食物のほうが性よりもはるかに重要なことだったんですね。たとえば、修道士規律において、問題は食物で、基本的に食物のことだった。つぎに、中世の間にゆっくりとした変化がみられ、それから、17世紀以降、問題は性に関わる事象です。」
「私がびっくりしているのは、ギリシアの倫理学では、人々は宗教的な諸問題のことよりも、自己の道徳的行動、自己の倫理、そして自己との関係、他人との関係のほうに気をかけていたということです。死んだら、われわれはどうなるのか?神々とはなんなのか?神々は介入してくるのか、来ないのか?というような類いの問いはあまり重要ではなかったんですね。なにしろそういう問題は倫理とは直接には関係がなかったのですから。倫理が一つの法体系と結びついていなかったわけです。たとえば、性的不品行に対する法律の数は多くなかったし、またそれほど拘束力をもつものでもなかった。ギリシア人が関心をもっていたもの、ギリシア人のテーマというのは、生き方の美学であるような倫理を作ることだったのです。」

 高村の「土の記」というテキストは上下巻500ページほどの「新潮」誌上に3年ほどにわったて連載された農村稲作小説である。「生の沸点、老いの絶対零度」という帯の見出しにあるように、古希を超えた老人が、17年ものあいだ交通事故か自殺かが原因で植物人間化した妻を看取って残りの人生を稲作をしながら犬と鯰と妻の妹と暮らす「まだらボケ」の男の残り時間の物語であり、僕にとればこれからのあとの10年を予感させる残り時間への生活へのヒントという身だしなみという知恵でもあるんだろうと思う。
 奈良の大宇陀の漆河原の大地主、三百年以上も続く豪農の庄屋の入婿と妻の一生を綴った一代記となっているのだが、この美女しか生まれない大地主の家系はこの100年間一人の男児も生まれない女系家族であった。だから女児は色男を金で強引に入婿として迎えるがそれでも男児は産まれない。それで4代続いて途中から他家の見知らぬ男に走るという愚行を繰り返すという喜劇が連綿と続いて行くのだ。天皇家でさえ同じ男児不足に悩むのは側室制度が崩壊したら男児による系統の継続はたったの3代で危機となる瑞穂の国の現状と映し絵のようでもある。1/2という確率のジャンケンに人は勝ち続けることは不可能なのであると思う。
 72歳を過ぎた頃に、伊佐夫の記憶が一部分飛ぶ、ボケが自覚できるほどある記憶が一部飛んでしまうという現象が起きて、それ自体を忘れてしまう。MRIやCTの解析で9ミリ大の脳梗塞の後が見つかって、血栓溶解剤を投与して治療するが、まだらボケは直らないという有様だ。
 妻が死んで、義弟が死んで、妻を事故に合わせた運転手も死に、次々に世代交代が進み、エリートの一人娘は家を棄て、日本を離れニューヨークでアイルランド人と再婚する。農家を継ぐ人は誰もいなくなり三百年続いた豪農の家系はいままさに途絶えようとしている。稲作という文化がグローバリズムに席巻される様を田舎の農家の毎日に移しとっているのである。
 高村は風土を書かせると実に上手い!「晴子情歌」で青森県の鯵ヶ沢のハタハタ漁の記載があるのだが、あまりの見事さに僕は2回も当地にドライブで見学に行った。このような土地で晴子は子を産んだのか!
「奈良の北東の空に浮かぶ額井岳や戒場山の山塊を見たい」と思わせる記述ということである。古事記と日本書紀の時代から連綿と続く稲作の歴史と生活が日本文化の中心だったということを都市生活者の僕たち日本人の多くは記憶と行動としては忘れてしまっただろうが、味覚の遺伝子は異なる。米飯の味に対する僕らの味覚は残っている!と思うのだ。性よりも食が大事というフーコーやギリシア人の指摘を待つまでもないことだが、続いてきたのは米を食うという文化である。

 そんなことを思いながら、今夜は赤飯を2合炊いた。餅米100%の炊きおこわはストーブという鍋で60分ほどで出来る。大納言という小豆が大きくて嬉しい。

電気釜で御飯をたく女

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伊賀焼きの土鍋

 電気釜で御飯をたく女(無論男もだが)は快楽の質が総じて低い。味音痴か頭が悪いかどちらかが多い気がする。それは日本人の主食たる炭水化物に対する味覚の質がひどく低く、改善するための向上心がない。あるいは本当に上手い御飯を食べた経験がない女が大半だ。25歳までにはおよそ2万5千回ほど食事をしているはずで、その中で味覚の改善の問題点が料理法にあると気がつかないという点で鈍感で救いが無いと思う。妙齢になれば、料亭や割烹で一度や二度は上手い御飯を食うという経験ぐらいはよほど貧しくないなら普通はするだろう。その時に食べた御飯が、自分の家庭の御飯とどこがどう異なるか?に気がつかない鈍感な女は(無論男もだが)味覚的には救いがたい。まずこういう雑な女と暮らすとロクなものが多分その後も一生食えないから交換すべし。人生の楽しみの多くを棒に振るということが起こり得る。食うというのは人生最大の欲望価値である。セックスをしないでも人は死なないが食事をしないと多分十日ほどで大半の人は餓死する。日本人の主食は米飯である。米を研ぐ、水を定量入れる、炊飯器のスイッチを入れる。この3つしかしていないのだから、気温、水温、米質に応じた水加減、火加減を自分で感じて調整できていないのだから、そもそも上手い御飯になるはずがない。まさに最悪である。どうすれば良いかは簡単で、電気炊飯器を棄てる。土鍋のお釜を買って直火のガスで炊く。時間も短く、米が立ってまるで別物のように上手い飯が炊ける。5回も練習すれば誰でも上手に御飯が炊けるようになる。
 有名な料理人(例えば 分けとくやまの野口さんとか)は必ず直火で釜で炊いている。米を研いだらザルに上げて40分、その後浸水30分して、強火で5−7分で吹いたら弱火で約10分で炊きあがり、15分蒸らせば完了だ。別段つきっきりの必要なしで、せいぜい3−5分も見ていれば加熱の状態の善し悪しがわかるようになる。(季節、温度、水温による)そういうことが自然にやっているうちにわかるようにならないと上手い飯は炊けない。僕など50歳までは一度も台所に入ったことがないほどひどい料理音痴でも、やれば馬鹿でも上達する。「上手いものが食いたい」という普通の欲望さえあれば、結構素人でも上手いものが作れるようになると思う。無論それには道具と材料と方法である。小学校高学年か中学で、米飯の炊き方など料理の基礎実技をもっとどんどんやるべきだ。人生に必要な実務のうちで、料理、掃除、洗濯という日常的な動作の質をもっと真面目に教えれば多くの日本人の生活の質が驚くほど改善するだろうと思うが、文科省は無意味でトンチンカンな事ばかりしていると思う。役にたたないことをやるよりよぼど国民の生活の質が底上げすると思われる。

 地震や台風などの水害で停電が起きても、水とカセットガスボンベとコンロと米と土鍋があれば上手い御飯が誰でも炊ける。お握りでも牛丼でもそれだけで30分程度で出来ることになる。災害時でも普段と遜色無い食事の質が確保できるのだから、復旧も早くなるだろう。売っていないなら自分の自力でいつでも作れる状態にあることが対策である。つねに売っているものの状態やレベル(例えばデパ地下の総菜やコンビニ弁当など)より旨いということが自作の最低限度のレベルだろうと思う。基礎的な料理ならば、自分で工夫してやれば大抵は出来るものが大半だろうと思う。
 その点で質の改善に通底して重要なのは、1道具、  2素材、 3調理法  の3要素だと思う。

 今年は都市型の災害が随所でたくさん起きた。神戸、大阪、京都、広島、岡山、札幌。地震、津波、台風、水害から二次的な停電や断水が大規模に起きる。特に札幌や大阪の停電は深刻な生活上のトラブルとなって、多くの都市住民の生活を根底から混乱させたと思う。これが次に首都圏で起きたらまさにパニックの極限ということになるだろう。今後も予想される関東や東海の大規模地震から起きる津波、停電、断水という一連の都市型災害の発生に対する住民の対処は、起きた時にどうすれば良いか?という具体性のある準備と対処だろう。
 倒壊しそうな建物から移動する、水害の可能性の無い高い土地、建物に移動する、埋め立て地や海岸線や河川から離れて居住する、山裾には住まない、水や食料、電池、ガスの備蓄を2−3週分は用意する、広域避難が可能な車やガソリンを準備する、常識的にはそういう普通の対処の組み合わせ以外にはあり得ないだろう。するかしないかの差が延命の可能性の差になると思うが、しても無駄だと思うなら「災害は来ない」というのと同じだろう。事実は災害は周期的にやってきたという事実である。その周期が人間一人の余命との関連で長い場合があったというだけの賭けである。人間の賭けは負ける人のほうが多いと経験的には思うのだ。

冬の日誌

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 自分はそんなふうにならない、そう君は思っている。そんなことは自分に起きるはずはない、自分は世界でただ一人そういうことが何ひとつ起らない人間なのだと。それがやがて、一つまた一つ、すべてが君の身に起りはじめるーーーほかの誰もに起きるのと同じように。

 ベッドから這い出て、窓まで歩いていくときの、冷たい床を踏む君の裸足の足。君は六歳だ。外は雪が降っていて、裏庭の木々の枝が白くなりかけている。

 いま語れ、手遅れにならないうちに。そして期待しよう、もう語るべきことがなくなるまで語りつづけられるようにと。何といっても時間は終わりに近づいている。もしかしたらここは、いつもの物語は脇へ置いて、生きていたことを思い出せる最初の日からいまこの日まで、この肉体の中で生きるのがどんな感じだったか、吟味してみるのも悪くないんじゃないか。五感から得た、データのカタログ。呼吸の現象学、と言ってもいいかもしれない。

  君は十歳で、真夏の空気は蒸し暑く、湿気はひどく高く不快であり裏庭の木陰に座っていても汗が額ににじんでくる。

 君はもう若くない。これは反駁の余地のない事実だ。今日からあと一ヶ月で六十四歳になる。過度に老いたという齢ではないし、後期高齢者と言うにも程遠い。それでも君は、この年齢まで行きつかずに終わった人たちのことを考えずにいられない。これもまた、起きるはずはなかったのに起きてしまったことのひとつだ。

 先週の吹雪の最中に、君の顔に当たった風。厳しく刺す寒さのなかで、君は人けの無い街路に出て、何だってこんなひどい雪あらしのときに外へ出ようなんて気になったんだろうと思っている。とはいえ、倒れまいとどうにかバランスを保とうとするさなかにも、その風がもたらす高揚があり、見慣れた街路が白く渦巻く雪のもやに変わったのを見る嬉しさがあった。

 肉体の快感と、肉体の苦痛。何よりまずセックスの快感、だがそれに食べたり飲んだりの快感、裸で温かい風呂に横たわること、痒いところを掻くこと、くしゃみやおなら、ベッドでもう一時間過ごすこと、春の終わりか夏の始めのうららかな午後に太陽に顔を向けて暖かさが肌にしみ込むのを感じることの快楽。無数の具体例。何らかの肉体的快感がまったくない日は一日としてない。とはいえ苦痛の方が明らかにもっと執拗で消しがたく、君の肉体のほぼすべての部分がこれまで一度は痛みに襲われてきた。目と耳、頭と首、肩と背、腕と脚、喉と腹、足首と足先、さらには、君の左の尻にかつて出来たおでき、医者がこれを「ウェン」(wen)と呼ぶのを聞いて何だか中世の疾病みたいに君の耳には響いたものだが、あのときはまる一週間椅子に座れなかった。

                    Winter Journal            PAUL  AUSTER     柴田元幸 訳
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 少し涼しくなって翻訳本を読むには良い季節になった。夏の始めに行ったきりご無沙汰していた辻堂にある湘南Tサイトに久しぶりに出かけて、新潮社から出たポールオースターの翻訳本を2冊買った。いつものように柴田元幸が訳している。柴田は現在MONKEYという月間文芸誌を自分で出版している粋な人で、村上春樹が翻訳の応援をしたり、小説の書き下ろしをしてなんとか部数を稼いでいるのだろうが、現代アメリカ文学の中でも「ポストモダン」に分類されるあまり日本では売れない、読まれることの多くない良い作家を中心に訳している。例えば ティム オブライエンの「世界のすべての7月」や「カチアートを探して」なんてどうだろう。僕の周囲の読書好きの人でもほとんど読んだ事が無い作家なんじゃないかと思う。仕事には金が絡むが、なるべくそれ以外の自分の好きな気に入った事を仕事にしたいということがアリアリと現れている文芸誌だから定期購読はしていないのだが、気がついたらバックナンバーを全部僕は買っている。その中でこの作品は良いなという短編によく出会うのだ。でもそれを縦に読もうにも日本語には未訳のものばかりということになって、結局は柴田が訳すまで翻訳待ちという事態になる、原書を辞書片手に読み込むほどの熱意は無いから怠け者の僕は詩集以外は翻訳待ちをずっとしている。

 毎日、なぜあれほど下らない無意味なTV番組ばかりを日本人は放映するのだろうかと思うが、あの予算の一万分の一でも外国文学の翻訳や紹介に回せば、きっと自民党の党首選挙で阿部や石破のような酷い最低レベルの政治家が出て来るような事態にはきっとならないじゃないのかと思う。

 還暦を過ぎた男の身体と精神というのは、少しくたびれてきてその疲労と消耗の度合いから先の時間についてのある種の予感めいた感じを日々自分で自覚するような気分になるものだ。このオースターの2册も彼が63歳の時に書いた久しぶりのノンフィクションになっている。幼年時から現在までおよそ60年間の身体感覚と精神生活について書いた同時代的な共感の一冊という感じを僕は受けた。オースターのテキストも柴田の翻訳も実に美しい文体だから、出来れば時間のある人には音読をおすすめしたい。伝わり方が切実で美しいという違いはやってみた人には即座にわかることであるし、口蓋と耳から入る振動と音がテキストの質を格段に高めるという効果があるからだ。母語の良い部分というのはそういうものであると思う。著者の朗読会というのがあったらぜひ行きたいと思うが、日本でそういう会はあまり開かれていないようで残念だなと思う。
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