ここから本文です
猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

記事検索
検索

寝たらおしまい。

イメージ 1


イメージ 2


10月のフラワーアレンジ
 

この秋は悲しいニュースが個人的には多かった。姉が6月に急死して四十九日を過ぎて、義兄がちょっと精神的にピンチらしい。専業主婦が先に死んで、家のことが何もわからない。預金通帳から銀行の貸金庫の鍵の在処もしらないらしい。丸投げ亭主の慣れの果てってことなんだろうが、そういう家も結構あるのかな?終活っていうのだろうが、そういうことをちゃんとしていなかったのだろうな。
仕方が無いので毎日自分で料理をし始めたようだが、あまり上手くいっていない。77歳だからここから何か新しいことを覚えて行くのは結構大変だろうと思うが、子どもも孫も離れているから自分でやるより他にない。運転はまだ出来るらしいし、特別どこかが悪いということでもないので、一人暮らしが寂しい、侘しいという愚痴である。いままで30年で電話がかかってきた事は、葬式と法事の日程以外はなかったのだが、酔って何度も電話があったから相当参っているんだろう。退職して10年も過ぎると友人も少なくなるということだろうか?宝塚という便利な場所に住んでいるが、外出をあまりしないらしいので、誰とも会話をすることがなくなってしまったという。このまま孤独になると認知症はすぐそこだろうと思うので、趣味のサークルでも入るか、ゴルフや散歩やハイキング、旅行でもしたら良いと言っておいた。男が一人残ると大変だね。その点、女はしっかりしているので却って生き生きと残りの時間を割り切って生きると思う。お一人様の老後は男のほうが危機的だと思うな。

 埼玉に一時住んでいた時の年上の友人(両隣のお隣さん)が2軒とも胃瘻になった。一人は認知症で13年寝たきり、もう一人は脳梗塞で下半身不随から意識混濁で胃瘻になった。彼ももう15年も寝たきりだ。昔は会社の社長さんで、63歳でヨットに乗り、サーフィンをやって、ランボルギーニカウンタックを経費で買って遊んでいた。銀座にいるほうが家に帰るより多かったんじゃないのかというぐらい酒と女が好きだったが、脳梗塞で遊べなくなって両方とも奥さんが介護している。奥さんは大変だなあと思う。男性で70歳代を無事に普通に生活できる人はとても少ない比率だと思うな。
 もう一人はマダムの生徒さんの旦那さん。身体のあちこちがガンで熱海の自宅で胃瘻になっている。この人もとてもお金持ちなんだが(車好きでジャグアーを三台とっかえひっかえ乗っているようなオーダーのお洋服以外生まれてから着た事がないような億ションのマダム)、アイコンタクト以外の意思表示がもう出来ないそうだ。何億もお金があっても病気になれば楽しくは使えないからあまりたくさんあっても意味が無い。僕の周囲の金持ちはほとんどみんなどこか深刻な病気にかかっている。年齢も8ー10歳上だから、71から74ぐらいで大体どこかが壊れて酷いと寝たきりや胃瘻になって生活の質が劇的に落ちるのだ。

そういう人ばかり見ていると次はそろそろ俺の番だなあと誰でも思うでしょ?だってそういうのは順番に来るものですからね。貧乏人の友人は少ないからどうしているのか良く知らない。て言うかいつの間にか疎遠になるんだな。多分話が合わなくなってしまうのね。相手は「猫は嫌みな奴」て常に思っているんじゃないのかな?目がそう言っているのがわかるものね。相手が軽自動車とかプリウスで来るのに、こちらはメルセデスやAUDIのデカイので行くといつもそういう目で見られるよ。電車嫌いだからとかもう10年電車乗ってないとか言うと呆れて何もいわなくなるし、、。

 大学同期生たちは60歳過ぎてもローンが残っているから定年延長で仕事を続ける男が多いようで、65歳までは働く人が大半のようだ。身体が元気ならそれも良いと思いますね。きっと家に居てもする事がない人は飽きちゃいますよ。それに家に居られるとマダムから文句が出る人が多いみたい。邪魔なんですね。何も家事が出来ないでゴロゴロされると鬱陶しいんだそうです。きっぱりそう言う奥方が大半ですね。そうならないために、料理、洗濯、掃除、運転は上手に出来る事が嫌われないコツですね、はい。

 「何を買うと上がりますか?」と良く聞かれるので「8411みずほ」と必ず言う。壁に月足がはってあるし、一番固いし楽だから。そのうち1000円になるでしょ?(笑)

イメージ 1



 問題は、出来事のひとつひとつを識別し、それらが属しているレベルやネットワークを区別すると同時に、それらを結びつけ、一方から他方を生み出させている関係の糸を再構成することなのです。ですから、象徴の領域や、意味構造の領域を参照する分析などは、不必要となるでしょう。戦術や戦略の発展や力の関係の系譜学のなかで行われるような分析こそが、必要なのです。思うに、私たちが依拠しなければならないのは、言語(ラング)や記号の大きなモデルではなく戦争のモデルではないでしょうか。私たちを支配し、規定している歴史性はけっして言語的なものではなく、好戦的な雰囲気に満ちたものです。それは、意味の関係ではなく、力の関係に他なりません。

 当時私は、自分のすでに刊行した著作が、まだどれほど臆病でたゆたいに充ちているものなのかを、痛感したほどでした。あの当時に行われた政治的突破口がなければ、私はそれらの問題の糸口をたどり、処罰、監獄といった方向へと探求を進める勇気をもつことができなかったでしょう。
 わたしの夢想する知識人とは、自明の理とか普遍的なるものを破壊する知識人、現在の無気力と閉塞状態の中で弱点を、破れ目を、主要な軸を見極め指示する知識人、たえず動きまわり、現在に注意を集中するあまり、明日自分がどうなっているか、何を考えているかなど正確には知らない知識人なのです。すなわち、はたして革命は労苦に値するのか、値するとすればどのようなものか(どのような革命、どのような労苦かという意味ですが)という問題を、つかの間の場で提起していくのに与る知識人なのです。もちろん、この問題に答えることができるのは、ただ、革命を行うためには生命を賭するもいとわぬ者だけです。              
                       ミッシェル フーコー
=======================================
 僕がこのフーコーのテキストを最初に読んだのは、1984年10月の現代思想10月号の「特集=フーコーは語る」だった。当時僕は29歳。初めて勤めた会社で、ゼロから労働組合を作ってくすぶっていた時代のことだ。なんちゃって左翼のバリバリの闘士が下克上を実現するためにその後社長になる。静かに副業の企画の仕事を立ちあげて、翌年には友人と法人を立ち上げて独立することになるのだが、長女が生まれて結構元気に楽しくリーマンで週に3回は名画座巡りでサボっていた時間だったように思う。
 三菱地所だ、太陽誘電などなんぴん5分割ぐらいで買って高値で戻り売りする分割当て物売買でも、それなりに時代がよかったせいで毎年300万や500万は相場で取れていた。今のKEYさんほどは狙っていなかったけど。

 レモンイエローの縦目の230というメルセデスに乗った相場で稼ぐ労働組合の委員長!あまりイメージできそうにないそういう生意気なあんちゃんだったのだ。あれからもう34年も経つかなあと感慨深いし、死なないで残っているのだから結構しぶといんだなあと思う。この間におよそ1200銘柄以上の月足グラフを書いているし、折れ線だって200や300は多分書いたろうと思う。すべてが身になったと思うから、「反復と差異」は真実であるなと思う。

 哲学と相場と料理と記述。この四つが僕を作ったのだろうし、親族の自由と奢侈を実現したのだろうと思う。人生に無駄な事なんてひとつも無いよと思うな。

イメージ 2


イメージ 3


Topixは、半年程度で2150pを目指すだろう

猫はマシマシ

月足を少し更新しはじめたが、押し目完了で反発開始が増えているような感じ。
これから去年と同じように凄く上がる気がする。(曲がるかもしれんけど、、、笑い)

イメージ 1


イメージ 2


イメージ 3


イメージ 4


綺麗にコツンで切り返し

イメージ 5


イメージ 6


海鮮ピラフは美味しいよ!

再びKEYさんへ

 親族の基本構造 2
父権性というのはフェミニストたちが正しく指摘するように男に「不等に高い評価を賦与するシステム」のことであるが、どうして男に「不等に高い評価を賦与する」のか、その理由は論理的に考えればすぐわかる通り、男には価値が無いからである。
 だから、男性にのみ選択的に与えられるすべての価値は原理的に「不等に高い価値」なのである。
 と書くと、また「男性が権力も財貨も情報も文化資本もすべての価値を独占しているではないか」ということを言い出す方がおられるかもしれない。
だからですね。つねづね申し上げている通り、国家や貨幣や威信などというものはすべて男が作り上げた幻想であって、このようなものに生物学的にはびた一文の価値も無いのである。
 現にまともな女性はそういうものにぜんぜん価値が無いことを知っているので、定期預金の残高を眺めたり、パソコンのディスプレイに見入っている男に向かって、「ねえ、私と仕事とどっちが大事なの?」と訊くのである。
 むろん、その場合に「仕事」などと答えた男は再生産の機会から永遠に排除されることになる。
 まあ愚痴はやめておこう。とにかくそういうわけで、親族というのは本来四項目から成るものである。レヴィ=ストロースが言っていないことで大切なことが一つある。
 それは子供には先行世代に「対立する態度を取る同性の成人」が最低二人は必要だということである。これは男女ともに変わらないと私は思う。成熟のロールモデルというのは単独者によって担われることができない。タイプの違う二人のロールモデルがいないと人間は成熟できない。これは私の経験的確信である。この二人の同性の成人は「違うこと」を言う。この二つの命題のあいだで葛藤することが成熟の必須条件なのである。多くの人は単一の無矛盾的な行動規範を与えれば子どもはすくすくと成長すると考えているけれど、これはまったく愚かな考えであって、これこそ子どもを成熟させないための最も効果的な方法なのである。
 成熟というのは簡単に言えば「自分がその問題の解き方を習っていない問題を解く能力」を身につけることである。成人の条件というのは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまうかを知っている」ということである。別に私はひねくれた逆説を弄しているわけではない。
 「私はどうふるまってよいかわからない状況に陥っている」という事況そのものを論件として思考の対象にし、それについて記述し、それについて分析し、それについて他の人々と意見の交換をし、それについて有益な情報を引き出すことが出来るのが成人だと申し上げているのである。だって、人生というのは「そういうこと」の連続だからである。
 けれどもシンプルでクリアカットで無矛盾的な行動規範だけを与えられて育てられた子どもは「そういうこと」に対処できない。「どうふるまってよいか分からない」ときに、「子ども」はフリーズしてしまう。フリーズするかしないかはハードでタフな状況においては「生死の分かれ目」となる。だから、子どもたちは矛盾と謎と葛藤のうちで成長しなければならないのである。
父と伯叔父は「私」に対してまったく違う態度で接し、まったく違う評価を与え、まったく違う生き方をリコメンドする。この矛盾を止揚するフレームワークはひとつしかない。それは「この二人の成人のふるまいはいずれも『私を成熟させる』という目的においてはじめて無矛盾的である」という回答に出会うことである。だが、この父と伯叔父を統合する包括的フレームワークは父も伯叔父もどちらも与えてくれない。
 子どもはこれを自力で発見しなければならない。それは「成熟」という概念を子ども自身が理解しない限り発見できない。成熟しない限り、「成熟のための装置」としての親族の意味はわからない。親族とは本来そのように構造化されていたのである。
 近代の核家族からは「伯叔父』が排除された。同性を引き裂く二つの原理の対立から、父が代表する父性原理と母が代表する母性原理の性的対立の中に子どもたちは移管された。性間の葛藤は同性間の二原理の葛藤よりもはるかに処理しやすい。というのは、人間は自分がどちらかの性に帰属しているかを知っており、そちらの性の原理に従うべきかを知っているからである。後期資本主義社会になったら、母たちまでが男性原理を内面化するようになってきた。権力や年収や威信や情報というそれまで男性にとってしか価値のなかったものに、女性たちも親族の存続よりも高い価値を見出すようになったのである。これが現代の子どもの置かれた状況である。
 かつて子どもたちは父と伯叔父と母という三人の先行世代、三つの原理の併存による葛藤のうちに生きていた。今の子どもたちは「権力と金がすべて」という単一原理のうちに無矛盾的に安らいでいる。このようなシンプルな原理の下では子どもたちは成熟できない。だから、成熟することを止めてしまったのである。
 親族の解体というのは、当今の社会学者が考えているよりもはるかに射程の広い人類学的問題につながっている。その日本の社会学者たちが「成熟の問題」を論件としてさっぱり取り上げないのはなぜであろうか?答えは一つしかない。
 ここまでお読みになった方はすぐにわかるだろうけれど。

  内田 樹  『こんな日本でよかったね』より転載
================================================
 3日間、内田さんの家族論と親族の基本構造を転載している。家族のことでいろいろどんな家庭でも悩み事があると思うが、一番切実なのは「真面目すぎる家族が引き起こす逃げ場のない悲惨さ」だと新聞報道を見ていると思う。平和な日本で一番殺人が多いのが「家庭内の尊属殺人」だという事実はなぜだろう?自分だけはそうじゃないと思っていても、そういう悲惨な事が実際おきているのだ。その要因についての自覚は当事者(親と子ども)には全くないのだね。「うちの子に限って、、そんな馬鹿な」と思う親のなんと多い事か。

 赤点を取った、受験がうまくいかない、虐めにあった、不登校になった、万引きした、無免許運転で捕まった、交通事故を起こした、喧嘩をして怪我をした(あるいはさせた)、クラスメートを妊娠させた、学校を退学になった、離婚した、また再婚した、、ああなんと忙しい!!
 恥ずかしながら、僕の優秀な長男さんは父親にそっくりで(勉強を好きな点以外は全部)以上なことをすべて中学生ぐらいから何度も何度も懲りずにやらかしてくれて、こちらはまあその都度何度弁護士やカウンセラーの御世話になったか覚えていないほどである。これを因果応報、自業自得と言う。それでも薬をしなかった点だけはなんとか助かったなと今は思うが、馬鹿をずっと10年以上もやり続けるのもそれなりにきっと本人も疲れるんだろう、最近は親に説教するほど偉くなったらしい。僕がサボっている墓参りに真面目に出かけて、命日や彼岸は墓参りだ。昨年長女が生まれてから人が変わったように家に帰って子どもの世話をするようになった。

 結局、24歳で自分で会社を作って、あっちへフラフラ、こっちへフラフラつまずきながらももう10年以上、解体屋をやって稼いでいるようだ。40人を使って年間5億以上売るそうだから、それなりに金にはなるんだろうが、それでどうという事も無いなと思うし、自分が30代でしていたことをまたこいつもやっているなと思うだけだ。25歳でエスティー ローダーのモデルみたいな美女と結婚したが2年もしないで離婚して、それからは1年1回づつ女が代わり、見たくもないのにいちいち我が家に連れて来る。関係性を上手に維持できない証拠であって馬鹿丸出しだが、息子の人生は息子のものだから僕はずっと放任している。そのうち天罰でも食らって直るところは直るし駄目なら多分くたばるだろうと思っている。

 親族というのはそういう離れることのない関係性だから、あまりギシギシと立派にやろうとしてもそういう理想的な計画では事は運ばないんじゃないか?と思う。自分のことを考えても親の言う事なんて訊かなかったし、それでも別段こうやって普通に生きている
んだからそれで良いじゃないか?と思うのだ。 人間は自分のなりたい自分にしかなれないんじゃないのか?一番の問題は自分が何になりたいか分からない間はいろいろ問題が起きるが、そのうち自分で自分に覚悟を決めるときが来るだろう。そこからしかその人の自由と人生は始まらないと思うな。親に出来るのは、それまでじっと待つことだろうと今は思うな。
内田さんが言う「成熟」ってそういうことだろ?親が焦っても駄目よ。

 >子どもはこれを自力で発見しなければならない。それは「成熟」という概念を子ども自身が理解しない限り発見できない。成熟しない限り、「成熟のための装置」としての親族の意味はわからない。親族とは本来そのように構造化されていたのである。
イメージ 1
ガールフレンドの猫たちも寝ている

イメージ 2
またキムチ炒飯とキノコスープ


親族の基本構造   1
 大学院では今期は「家族論」をやっている。
 今回のお題は「父親」。発表担当のマスダさんがいろいろな論者の家族論。父親論を引用してくれたので「父親をめぐる言説史」を一覧できた。
 日本人の家族論の多くがサル学の知見に依拠しており、精神科医たちまでが霊長類の「延長」として家族をとらえていることに私は一驚を喫した。人間の家族はゴリラやチンパンジーの「家族」とは成り立ちが違う。レヴィ=ストロースは家族論を語るときの必読文献だと思うのだけれど、家族論者のどなたもこの人類学者の知見には特段のご配慮を示されておられないようである。よい機会であるので、レヴィ=ストロースの「親族の基本構造」の考想を簡単にご紹介しておこう。レヴィ=ストロースは、ラドクリフ=ブラウンの先行研究をふまえて、親族の基本単位が四項から成ると論じている。

 ラドクリフ=ブラウンによれば、伯叔父権という述語は相反する二つの態度の体系を意味している。第一の場合、母方の伯叔父は家族の権威を表象する。彼はその甥にとって恐るべき人物であり、甥は彼に服従し、彼は甥に対してさまざまな権力を行使することができる。第二の場合、伯叔父に対してさまざまな親しみの特権を行使し、軽んじることが許されるのは甥のほうである。そして、母方の伯叔父に対する態度と父親に対する態度のあいだには相関関係がある。いずれの場合でも、われわれは二つの同一の態度の体系を見い出すのであるが、それは逆転しているのである。つまり父親と息子の関係が親密である集団においては母方の伯叔父と甥の関係は冷たいものであり、父親が親族の権威の受託者である場合には、甥が親しくつきあうことができるのは伯叔父の方なのである。この二つの態度集団は音韻論で言うところの対立する一対をなしているのである。

問題は甥と母方の伯叔父との単独の関係ではなく、「兄弟/姉妹」「夫/妻」「父/子」「母方の伯叔父/その姉妹の息子」という4つの「対立する一対」の有機的関連なのである。
 実例を挙げよう。
 母系のトロブリアント島では、父子はへだてのない親密さで結ばれており、甥と母方の伯叔父はきびしく対立している。コーカサスのチェルケス族では父と子は非寛容な関係にあり、母方の伯叔父は甥を支援し、結婚に際して馬を贈る。
 またトロブリアント島では夫婦は親密であるが兄弟姉妹はきわめて厳密なタブーによって親しく交わることを禁じられている。チェルケス族では逆に兄弟姉妹はきわめて親密であるが、夫婦は人前ではけっして一緒に行動せず、夫に妻の健康を訊ねることはタブーになっている。などなど。
 これらの事例からレビィ=ストロースはこの二対の親族関係が次のようなルールで律されていることを発見する。

 この構造は二つの相関的な対立関係で結ばれた四つの項(兄弟、姉妹、父、息子)から出来ている。その結果、二世代のそれぞれにおいて、一つのポジティブな関係と一つのネガティブな関係が存在することになる。この構造は何か?この構造の存在理由は何か?答えは次のようなものである。この構造は考え得る限り、存在しうるもっともシンプルな親族構造である。これがまさしく親族の原基なのである。

 どうして二世代にわたって二対の対立関係が存在しなければならないのか。その理由をレビィ=ストロースはあっさりと「インセスト タブー」として説明している。

 人間社会では一人の男は女を別の男から受け取るしかなく、男は別の男に女を娘または姉妹というかたちで譲渡するのである。親族は静態的な現象ではない。それが存在する唯一の理由は親族が存続することである。われわれは人種を継続させる欲望について話しているのではない。そうではなくて、われわれが語っているのは、ほとんどの親族関係において、任意のある世代において女を譲り渡したものと女を受けとったものの間に発生した始原の不均衡は、後続する世代において行われる反対給付によって相殺されるしかないという事実である。

 相変わらずレビィ=ストロース先生は鋭くものごとの本質を言い当てている。親族の存在理由は親族を存続させることであり、四項からなる基本構造は親族のダイナミズムを担保するための必要最小限のかたちである。女性はどうなるのか、というお尋ねが当然あるだろう。どうして「母と娘」「父方の伯叔母と姪」の四項からなる親族の基本単位は存在しないのか、と。
 現に、多くのフェミニストたちはレビィ=ストロースの「女の交換」とか「女の譲渡と反対給付」というような言い方に激怒されて、レビィ=ストロースはセクシストに過ぎぬと断罪して『構造人類学』を悪質な妄言に満ちた書物であると断じて焚書坑儒してしまったのである。
 愚かなことである。どうして男が「交換の主体」であり、女が「交換の対象」であるかというと、答えは簡単。男それ自体には交換物としての価値が無いからである。男は再生産しない。再生産のためには女100人あたり、男一人いれば十分である。99%の男には生物学的な価値が無い。無価値なものをもらっても、反対給付の義務は動機づけられない。それでは親族は形成されない。

 内田 樹 「そんな日本でよかったね」より転載
友だち
白猫次郎
白猫次郎
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(16)
  • タートル
  • ひよこ
  • key09.hatenablog.com
  • hir*5*321*7
  • ベトナム
  • ホウセン
友だち一覧
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

開​設日​: ​20​13​/1​2/​21​(土​)

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事