親族の基本構造 2
父権性というのはフェミニストたちが正しく指摘するように男に「不等に高い評価を賦与するシステム」のことであるが、どうして男に「不等に高い評価を賦与する」のか、その理由は論理的に考えればすぐわかる通り、男には価値が無いからである。
だから、男性にのみ選択的に与えられるすべての価値は原理的に「不等に高い価値」なのである。
と書くと、また「男性が権力も財貨も情報も文化資本もすべての価値を独占しているではないか」ということを言い出す方がおられるかもしれない。
だからですね。つねづね申し上げている通り、国家や貨幣や威信などというものはすべて男が作り上げた幻想であって、このようなものに生物学的にはびた一文の価値も無いのである。
現にまともな女性はそういうものにぜんぜん価値が無いことを知っているので、定期預金の残高を眺めたり、パソコンのディスプレイに見入っている男に向かって、「ねえ、私と仕事とどっちが大事なの?」と訊くのである。
むろん、その場合に「仕事」などと答えた男は再生産の機会から永遠に排除されることになる。
まあ愚痴はやめておこう。とにかくそういうわけで、親族というのは本来四項目から成るものである。レヴィ=ストロースが言っていないことで大切なことが一つある。
それは子供には先行世代に「対立する態度を取る同性の成人」が最低二人は必要だということである。これは男女ともに変わらないと私は思う。成熟のロールモデルというのは単独者によって担われることができない。タイプの違う二人のロールモデルがいないと人間は成熟できない。これは私の経験的確信である。この二人の同性の成人は「違うこと」を言う。この二つの命題のあいだで葛藤することが成熟の必須条件なのである。多くの人は単一の無矛盾的な行動規範を与えれば子どもはすくすくと成長すると考えているけれど、これはまったく愚かな考えであって、これこそ子どもを成熟させないための最も効果的な方法なのである。
成熟というのは簡単に言えば「自分がその問題の解き方を習っていない問題を解く能力」を身につけることである。成人の条件というのは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまうかを知っている」ということである。別に私はひねくれた逆説を弄しているわけではない。
「私はどうふるまってよいかわからない状況に陥っている」という事況そのものを論件として思考の対象にし、それについて記述し、それについて分析し、それについて他の人々と意見の交換をし、それについて有益な情報を引き出すことが出来るのが成人だと申し上げているのである。だって、人生というのは「そういうこと」の連続だからである。
けれどもシンプルでクリアカットで無矛盾的な行動規範だけを与えられて育てられた子どもは「そういうこと」に対処できない。「どうふるまってよいか分からない」ときに、「子ども」はフリーズしてしまう。フリーズするかしないかはハードでタフな状況においては「生死の分かれ目」となる。だから、子どもたちは矛盾と謎と葛藤のうちで成長しなければならないのである。
父と伯叔父は「私」に対してまったく違う態度で接し、まったく違う評価を与え、まったく違う生き方をリコメンドする。この矛盾を止揚するフレームワークはひとつしかない。それは「この二人の成人のふるまいはいずれも『私を成熟させる』という目的においてはじめて無矛盾的である」という回答に出会うことである。だが、この父と伯叔父を統合する包括的フレームワークは父も伯叔父もどちらも与えてくれない。
子どもはこれを自力で発見しなければならない。それは「成熟」という概念を子ども自身が理解しない限り発見できない。成熟しない限り、「成熟のための装置」としての親族の意味はわからない。親族とは本来そのように構造化されていたのである。
近代の核家族からは「伯叔父』が排除された。同性を引き裂く二つの原理の対立から、父が代表する父性原理と母が代表する母性原理の性的対立の中に子どもたちは移管された。性間の葛藤は同性間の二原理の葛藤よりもはるかに処理しやすい。というのは、人間は自分がどちらかの性に帰属しているかを知っており、そちらの性の原理に従うべきかを知っているからである。後期資本主義社会になったら、母たちまでが男性原理を内面化するようになってきた。権力や年収や威信や情報というそれまで男性にとってしか価値のなかったものに、女性たちも親族の存続よりも高い価値を見出すようになったのである。これが現代の子どもの置かれた状況である。
かつて子どもたちは父と伯叔父と母という三人の先行世代、三つの原理の併存による葛藤のうちに生きていた。今の子どもたちは「権力と金がすべて」という単一原理のうちに無矛盾的に安らいでいる。このようなシンプルな原理の下では子どもたちは成熟できない。だから、成熟することを止めてしまったのである。
親族の解体というのは、当今の社会学者が考えているよりもはるかに射程の広い人類学的問題につながっている。その日本の社会学者たちが「成熟の問題」を論件としてさっぱり取り上げないのはなぜであろうか?答えは一つしかない。
ここまでお読みになった方はすぐにわかるだろうけれど。
内田 樹 『こんな日本でよかったね』より転載
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3日間、内田さんの家族論と親族の基本構造を転載している。家族のことでいろいろどんな家庭でも悩み事があると思うが、一番切実なのは「真面目すぎる家族が引き起こす逃げ場のない悲惨さ」だと新聞報道を見ていると思う。平和な日本で一番殺人が多いのが「家庭内の尊属殺人」だという事実はなぜだろう?自分だけはそうじゃないと思っていても、そういう悲惨な事が実際おきているのだ。その要因についての自覚は当事者(親と子ども)には全くないのだね。「うちの子に限って、、そんな馬鹿な」と思う親のなんと多い事か。
赤点を取った、受験がうまくいかない、虐めにあった、不登校になった、万引きした、無免許運転で捕まった、交通事故を起こした、喧嘩をして怪我をした(あるいはさせた)、クラスメートを妊娠させた、学校を退学になった、離婚した、また再婚した、、ああなんと忙しい!!
恥ずかしながら、僕の優秀な長男さんは父親にそっくりで(勉強を好きな点以外は全部)以上なことをすべて中学生ぐらいから何度も何度も懲りずにやらかしてくれて、こちらはまあその都度何度弁護士やカウンセラーの御世話になったか覚えていないほどである。これを因果応報、自業自得と言う。それでも薬をしなかった点だけはなんとか助かったなと今は思うが、馬鹿をずっと10年以上もやり続けるのもそれなりにきっと本人も疲れるんだろう、最近は親に説教するほど偉くなったらしい。僕がサボっている墓参りに真面目に出かけて、命日や彼岸は墓参りだ。昨年長女が生まれてから人が変わったように家に帰って子どもの世話をするようになった。
結局、24歳で自分で会社を作って、あっちへフラフラ、こっちへフラフラつまずきながらももう10年以上、解体屋をやって稼いでいるようだ。40人を使って年間5億以上売るそうだから、それなりに金にはなるんだろうが、それでどうという事も無いなと思うし、自分が30代でしていたことをまたこいつもやっているなと思うだけだ。25歳でエスティー ローダーのモデルみたいな美女と結婚したが2年もしないで離婚して、それからは1年1回づつ女が代わり、見たくもないのにいちいち我が家に連れて来る。関係性を上手に維持できない証拠であって馬鹿丸出しだが、息子の人生は息子のものだから僕はずっと放任している。そのうち天罰でも食らって直るところは直るし駄目なら多分くたばるだろうと思っている。
親族というのはそういう離れることのない関係性だから、あまりギシギシと立派にやろうとしてもそういう理想的な計画では事は運ばないんじゃないか?と思う。自分のことを考えても親の言う事なんて訊かなかったし、それでも別段こうやって普通に生きている
んだからそれで良いじゃないか?と思うのだ。 人間は自分のなりたい自分にしかなれないんじゃないのか?一番の問題は自分が何になりたいか分からない間はいろいろ問題が起きるが、そのうち自分で自分に覚悟を決めるときが来るだろう。そこからしかその人の自由と人生は始まらないと思うな。親に出来るのは、それまでじっと待つことだろうと今は思うな。
内田さんが言う「成熟」ってそういうことだろ?親が焦っても駄目よ。
>子どもはこれを自力で発見しなければならない。それは「成熟」という概念を子ども自身が理解しない限り発見できない。成熟しない限り、「成熟のための装置」としての親族の意味はわからない。親族とは本来そのように構造化されていたのである。